ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のブルックナー交響曲第8番

ジョナサン・ノット指揮の東京交響楽団ブルックナー交響曲第8番を聴いた(7月16日、サントリーホール)。
ジョナサン・ノットは、彼が16年間の長きにわたって務めてきたバンベルク交響楽団音楽監督としての仕事を、2週間前にこの曲を振って終えてきたばかりなので、それが東京交響楽団でどのように再現されるのか興味津々で出かけてきた。再現と言っても、当方はバンベルク交響楽団のさよならコンサートを聴いているわけではないので、聴き比べをできるわけではない。むしろ聴き比べという意味では、ノットが東京交響楽団音楽監督として演奏した第3番や第7番と比べてどうよということになり、数年前に前音楽監督のスダーンが東響とやった演奏と比べてどうかということでもあり、その他、これまであちこちで聴く機会があったこの曲の実演と比べてどうかということにもなる。それに加えて、この曲にはフルトヴェングラークナッパーツブッシュ、シューリヒト、カラヤンジュリーニといった人たちの名盤があって、それぞれに個性を競い合っているので、否が応でもそれらの演奏が評価の下敷きになってしまう。

この日の演奏は聴き応えがあった。ノットの指揮が素晴らしいのは、どんな曲を振っても解釈がひとりよがりにならず、伝統を踏まえた節度が感じられる点だ。そこがこの指揮者を聴く際の安心感につながっており、この日もその部分がとてもよかったということになる。幹がオーソドックスで、そこに音楽を活性化させる枝葉の企みが盛り込まれるという感覚を覚えるのがノットで、これは私自身の音楽の趣味からすると最大の賛辞なのです。彼の場合は、その盛り込まれ方が非常に分析的で、彼のバトンを見ていてもフレーズやパーツの意味をきちんと押さえながら、しっかりと表現することを求めているのがよくわかり、自然とよく練られた演奏を聴いたという感慨につながる。たぶん、こういう練り方を要求してくる指揮者で演奏をするのは、団員さんにとっても楽しいことが多いのではないかと想像してしまう。

分析的という言い方をすると、楽譜至上主義的になって、楽譜には実はこう書いているんだよねと主張したがるタイプのことを話していると思われてしまう恐れがあるが、ノットの場合は、曲の演奏史上の位置づけを分析してやるべきことを考えているようなところがあり、だからだろうが、東響のシェフになった披露演奏会でマーラーの9番をやった人が、ブルックナーを演奏して実にブルックナーらしい演奏になる。マーラーも、ブルックナーも、どちらも評価が高いとなると、例えばハイティンクは典型的にそうだが、シノーポリテンシュテット、インバルなどの両刀使いは、どう見たって、やはりベースはマーラーである。数年前にハーディングが新日フィルでブルックナーの8番をやったが、これはマーラー振りのブルックナーそのものだった。ブルックナー好きが聴くと、うーんちょっと違う、と思ってしまう。ところが、ノットは、どうやらマーラーブルックナーも、というタイプであるらしいのだ。そこは面白いと思う。

面白いのは、つまり、彼の場合、リゲティなどの現代音楽の解釈者として有名になった人でもあるし、東響のパンフレットに載るインタビュー記事を読んでも分かるとおり、相当に理詰めで物事を考える人である点で、もしかしたら、マーラーも、ブルックナーも、彼にとってはリゲティ同様に理詰めの対象ではないかと思えるところである。ブルックナーらしさ、マーラーらしさの実態(つまり演奏の伝統)を分析し、そこは外せない所与の要件として理解したうえで演奏を組み立てている節があるとすれば、そうした学究肌タイプの指揮者としては相当のものだということになる。学究的だからということではなく、演奏を聴いていると、そこの部分が感じられないという意味でだ。

というわけでノットと東響の演奏は楽しい。東京交響楽団の音はトップクラスのオーケストラに比べると厚みに欠け、響きに硬い部分があり、ドイツのオケが弾くようなブルックナーにはならないが、そこはないものねだりの類ですよと割りきれば、十二分に満足できる。今年の春、やはりこの曲を在京のオーケストラで聴いた時にはいまひとつで、当分そこのオケは聴かないと決めたぐらいだが、この日のようなオーソドックスかつ繊細な演奏が生で聴ければ言うことない。そういう満足感の高いブルックナーだった。