ノット指揮東京交響楽団のマーラー交響曲第3番

ジョナサン・ノットと東京交響楽団マーラー交響曲第3番を聴いた(9月13日・ミューザ川崎)。
10代から20代にかけては、世がマーラーブームであったことも手伝って、あらゆる作曲家の中でもっともひいきにして熱心にマーラーを聴いていたものだった。しかし、次第にその機会は減るようになり、今では生の演奏を聴くのはしごく稀。前回はやはりノットと東京交響楽団交響曲第9番だった。去年の春の演奏会だが、その前がマゼールと東響の交響曲第1番で、これはその2年前だろうか。どちらも、マーラーを聴きたいというのではなく、指揮者を聴いてみたいという欲求が先で、作曲家はあとについてきたにすぎない。マーラーへの興味はすでにその程度で、その前となると、プロのオケに限定すれば、たぶん20世紀に遡ることになる。

交響曲第3番に限ると、昔はショルティシカゴ交響楽団のレコード録音を飽きもせずに繰り返し聴いていた。若い頃の思い出とマーラーは直結している。もっとも、この曲の生演奏にはただの一度しか接しておらず、80年代半ばのNHKホールでヴァーツラフ・ノイマン指揮のN響を聴いた、その一度だけだが、それでも旧知の知り合いという感じがする。同窓会を開きたいくらい。

久しぶりの3番、「夏の交響曲」は、ノットと東響の演奏が乗っていて、生演奏ならではのスリルが堪能できた。それにミューザ川崎のハイファイサウンドは複雑なスコアが分解されて聴こえるのでマーラーを聴くのにはうってつけの感がある。こういう曲は録音で聴いても音響にまつわるおいしい部分が抜け落ちてしまうので、つまらない。そこも含めてのマーラーであるはずなので。

それにしても、まぁなんと複雑で、知的で、長くて、しかし漂う気分としては若々しい作品であることか。作曲家30代半ば。あからさまに若い聴衆のための曲であるという印象を得る。同じ年代でこの世から退出したモーツァルトが老若男女に訴求するのと対照的である。マーラーの最後の言葉は「モーツァルト……」だったと伝えられているが、マーラーは最後の9番に至ってモーツァルトの軽みに近づいたのだろうか。マーラーモーツァルトではないということで言えば、厭世観を覆う自己肯定のパワーがみなぎる3番は、純粋に将来も聴衆に支持され続ける作品なのだと思う。個人的には、次を聴く機会があるかどうか。やはり「夏の交響曲」そのものなのかもしれない。もっとも来月初めにはN響パーヴォ・ヤルヴィの指揮する2番を買ってしまっている。正直、too muchで、少々気分が重い部分もある。