宮粼駿の『風立ちぬ』をテレビで観た

先日初めてテレビ放送された宮粼駿の『風立ちぬ』を録画していたのをやっと観た。
ネットを見ていると悪評が完全に先行しているようだったし、堀辰雄の『風立ちぬ』を下敷きにしていると聞いて、甘ったるいだけのつまらないお話なのではないかと勝手に思い込んでいたのだが、見始めたらあっという間に引き込まれ、感心のうちに見終わった。これはオリジナリティという点では宮粼駿にとっての最高傑作かどうかは分からないが、歴史に基づいた作品も、国の悲劇もファンタジーの枠組みに取り込まれるその進み行きが宮粼さんそのもので、こういう反戦映画、反権力映画は他の誰にも作れないという点ですげえと思ったし、これを自身の最後の作品として引退するという気持ちはよく分かった気分になった。

これのどこが不評の素を含んでいるのかと訝しく思って『Yahoo!映画』の評を読みにいったのだが、ひとつには分かりにくいという感想、ひとつには戦争の悲惨さが描かれていないという感想、ひとつには筋立てが陳腐だという感想、それから主人公の声を担当した庵野秀明さんの声が嫌いという意見。それやこれや。

ところが私にはどれもそういう風には感じられなかった。映画は過度に説明的になり過ぎない点がよかったし、見終わって、大空襲やゼロ戦が撃墜される場面が出てこなかったことに感心したし、筋立てはパーツはすべて陳腐というべきものなのに、これとて陳腐の代表と言ってもよいはずのカプローニさんと二郎さんの夢の場面が映画全体にファンタジーの網をかけ、作り話さを増すことによってメッセージの真実性が露わになるかのような気分を味わった。マイナスとマイナスが掛けあってプラスになったかのよう。

私自身は戦争を知らない子どもたちよりもずっと下の世代なので、戦争を知らないことにかけては今の子供達と何ら変わらない。でも、親や親戚や、直接戦争に行かされたり、戦火にあぶられた世代に育てられた身なので、戦争の痛さが、間接的にだが、妙にくっきりと刷り込まれているのでもある。子供心に、戦争の話題で悲しみを表現する親の痛ましい表情や言葉は刺さる。そういう世代と、その下の世代とでは、『風立ちぬ』から読み取るものは自然と異なってくるだろうとは思う。外国でも通じないだろう。

陳腐と言えば、軽井沢の万平ホテルとおぼしき高原の一流ホテルの場面で映画『会議は踊る』の『ただ一度だけ』が主人公たちによってまるまる合唱されたのも陳腐以外のなにものでもないのに、「あまりに陳腐!」と思いながら引きこまれてしまったし、その際にピアノを弾いていた、ゾルゲを思い出させるドイツ人の登場人物が、「ここは魔の山です」と主人公に宣うのだが、その人物の名前がトーマス・マンの『魔の山』の主人公と同じ「カストルプさん」なのもあまりに陳腐と言えば陳腐。それでもって堀辰雄の『風立ちぬ』だし、高原のサナトリウムなのだ。そんな陳腐さ満載なのに、戦争のシーンを描かない、ゼロ戦の撃墜シーンを描かないことに代表される戦略的なストイックさと画面の映画としての美しさが宮粼さんのアニメ的というか、漫画チックというか、個性的なイマジネーションを通過する中で陳腐を重ねた末の深みを生み出している。不思議な映画だ。私にとっては本作が宮粼駿の代名詞になった。