心を統べる技術

つい先日、在京の某オーケストラでベートーヴェンを聴いた。帰りがけの電車でツイッターを除くと、最近のコンサートの常で、もういくつものツイートが当の演奏会に関して流れている。ほぼ絶賛。もちろん、終わったばかりのコンサートについて一言しゃべりたいという人がいれば、褒め言葉が並ぶのは自然だし、演奏自体、技術的な安定度合いという意味には申し分なく、それがなければベートーヴェンにはならない「熱気」にもあふれていた。

楽しめたコンサートではあったけれど、それでも「よかったぁ」と言いたくなる体験は、まだその先だった。プロのコンサートの良し悪しは客観的な事実ではなく、ひとえに私という聴衆と演奏との相性の問題なので、演奏に対する評価は当然のことながら人によって別れる。「よかったぁ」と言いたくなるコンサートには心の震えや恍惚感があるとすれば、この夜にはそこまでのものはなかった。

ことさら比べるつもりはないのだが、例え話ではないわかりやすい例で言えば、先月NHKホールで聴いたブロムシュテットN響モーツァルトチャイコフスキー。とくに下手な演奏だと途端に退屈の気分に陥るモーツァルトの、弦の合奏のニュアンスの豊かさ。それはそれは、ドキドキものだった。

こうやって書いていくと、書くことによって気づかされる部分が出てくる。やはり、ブロムシュテットN響の演奏には、ドキドキ感にまで達しなかったコンサートにはなかった「客観的」なニュアンスの高度さ、世界のトップオーケストラが生む付加価値に伍す何かがあったのではないか。それこそがオーケストラにとっての技術と呼びうるものではないか。

この論が正しければ、つまり日本のオケは、多くのケースで「楽しめない」という身も蓋もない結論になってしまう。でも、言葉にするのがはばかられる実感は、そういうことになってしまうんだと思う。ブロムシュテットN響の演奏はもうすぐEテレで放送があると思うので、お好きな方は聴いてみてください。