ジョナサン・フランゼン著『フリーダム』

『フリーダム』(訳:森慎一郎)は、数年前に出たアメリカ人作家ジョナサン・フランゼンの作品で、ニューヨーク生まれのヒロインが家族との関係がうまくいかずに故郷を離れて中西部で大学以降の生活を送り、夫と知り合い、その友人と三角関係に陥り、子どもや兄弟との関係構築を苦労し、といった家族間の葛藤、軋轢を、ヒロインの視点、旦那の視点、息子の視点など章ごとに異なる複数の視点で30年越しに見つめていく物語。洒落た表紙に惹かれて手にとってみた。ちなみに原著も日本版も同じ体裁なので、供給者のジャケ買いの企みに乗せられたということかもしれない。

ヒロインはバスケットの花形選手だった高校生の時に男子生徒にレイプされる。しかし、人権派の弁護士である父親と民主党の地元政治家である母親は、加害者の親の社会的地位をおもんばかってヒロインに泣き寝入りを強いる。この不幸が自分に対して深いところで無関心な両親に対するヒロインの不信と悲しみを決定的なものにし、その両親像への反発が彼女の人生に対する意固地な態度を決定的なものにする。

というところから始まるアメリカの中流階級の物語は、親子、夫婦、兄弟、友人関係、都市と郊外、東海岸と中西部、共和党民主党、資本家と大衆、9.11、イラク戦争といったさまざまな対立を包含し、それらの対立を生み出すアメリカの自由を描いていく。

アメリカ社会のひずみを登場人物の心の動きに即してリアルに描くという点で非常によく出来た小説で、世代を渡りながら人の心の闇や移ろいを丹念に描く創作態度は『エデンの東』を書いたスタインベックの国の人だなと思い、デュトゥルトルが描く21世紀のフランスがフランス小説そのものであるという感慨を持つのと同じく、フランゼンが描く小説世界がアメリカ的、アメリカ小説的なのにことさら目がいった。「カニは甲羅に似せて穴を掘る」のだし、シオマネキはシオマネキであって毛ガニではないのだ。そんなことを思ったのは小説のせいではなく、たまたまフランスの本とアメリカの本を時間を置かずに読んだからにすぎないのだけれど、言葉にはあらためて文法や語彙だけでなく、固有のレトリック、物語る枠組みが備わっていると感じたのも事実である。それほどに二つの小説は意図せずして国籍を露わにしていた。

スタインベックの名前を出したけれど、この小説の中で生きる人達はスタインベックの人物のような個の魅力を徹底的に欠いている。思わず顔を上げたくなるような一言半句は数百ページのどこにもなく、苦悩の深さに釣り合うような大団円は用意されず、登場人物の魂の回復は、これが小説の登場人物だろうかと訝しくなるほどにへたれている。神々の劇ではなく、生身の人間の劇であることをやめようとしない。

21世紀はそんな時代なんですということかもしれず、そのリアルさが作者の持ち味なんですということかもしれないが、しかし、それでは少し悲しくないか、ノンフィクションも小説も、それらを読む楽しみは結局作者の主義主張をしっかりとした声として聞くところにあるのではないかとあらためて思ってしまった。

長い物語を高みからコントロールする作者の筆力は大したもので、その点は安心して薦められる。ただし、「ウェストチェスター郡」とか「ヨンカーズ」とか、散りばめられている固有名詞の意味は、土地の人にはわかるけれど、日本人には文脈を構成する要素として読めない部分がやはりある。本来そういうものは作品にとって、最終的には枝葉末節に見えなければいけないのだけれど、そうなりきっていない感がこの作品にはある。


フリーダム

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