デュトゥルトル著『フランス紀行』

朝っぱらから大リーグの試合を生放送で試聴できたり、ベルリン・フィル定期演奏会をインターネット経由で聴けたり、アメリカの新聞記事をアメリカ人が読むのと同じ日に読んだりなんてことは、自分が子供の頃には想像すらできなかった。それを考えると、かつての自分がよく知っている時間がすでに「昔々」の範疇に落ちていって、この場所で語っている事柄の多くが、あるいはそれらを俎上に載せる語り口が昔語りであると言えなくもない。

書いて、大して読み返しもせずにアップして、その後に読み返すと、書いている内容ではなく、視点自体が昔語りであることにあとから気がつくということがあるのだ。なんてこった、俺様はすでにおじい様か、と愕然とする瞬間があまりにしばしばある。やめてほしいと自分自身に言いたいほどだ。

そこからさらに横滑りして言いたくなるのは、語る方は語りたい内容に対して一所懸命でも、聞き取る方としては、必ずしも内容ではなく、その語り口にこそ目を止める、耳をそばだてるということが、稀にかもしれないけれどありうるということ。日常の語りでそんな楽しみに出会うことがあるとすればそれは僥倖のうちだが、アートの世界で作品を享受する楽しみはまさにそこにこそある。日経新聞の書評に誘われて手にしたアノワ・デュトゥルトル著『フランス紀行』(西永良成訳)を読了後に、あらためてそんなことを感じた次第。

『フランス紀行』には二人の主人公がいる。一人はタクシーのなかで配られる宣伝誌の編集を正業にしながら映画の世界で成功することを夢見て生きている四十代のフランス男。もう一人はシングルマザーの母親から父親が行きずりのフランス人だったことを知らされ、まだ見ぬフランスの地に憧れを抱きつづけるニューヨーカーの若者。二人の日常がそれぞれに割り当てられた章の中で交互に語られる。前者は名前が明かされないままに一人称で綴られ、後者はデイヴィッドという名前は分かるものの、それを三人称で語っているのが誰なのか、作者その人なのか、そうではない誰かなのかが明かされないままに物語が進む。

物語は、フランスに理想的な芸術の国を夢見るデイヴィッドの初めてのフランス旅行に寄り添い、彼がル・アーヴルに上陸してパリで数ヶ月を過ごした後にニューヨークに戻るまでを描いているが、大団円を目指すようなドラマは何一つとして起こらない。パリに住まう、自分自身の夢にひたすら突き動かされているような市中の人々、その意味でデイヴィッドの合わせ鏡であるような人々との雑然とした交流が描かれ、その雑然さに主人公が疲れたときに、あるいはそれらの交流の意味を悟ったときに、突如として物語は終わりへと舵を切る。

そのデイヴィッドの章に、もう一人のフランス男の章が割り込いんでくる。両者は、二人が偶然に出会って小旅行に出かけるところでしっかりと交差をし、また物語の最後も旅を共にするのだけれど、さきほど書いたように方や三人称、かたや一人称で読者の前に現れる二人の交わりは左右対称になっていない。その語りのずれが、『青い鳥』の焼き直しのような、事件やメッセージの側面では単純でつまらないと言い放ってもはばかられるところがない物語に奥行きやリズムを与える。

『フランス紀行』の作者デュトゥルトルはミラン・クンデラの友人だそうで、クンデラの訳者である西永良成さんが日本語訳を担当している。そう聞いて心が動く人のための本ということかもしれない。フローベールの『感情教育』を読んで退屈しないという人のためのものと言ってもいい。たぶん読者は限られるでしょう。


フランス紀行

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