飯森範親指揮山形交響楽団のブルックナー交響曲第1番

前日のブラームスで抱え込んだ、なんとももどかしい気持ちを解消してくれた演奏会。ブルックナーの1番が演奏会で取り上げられること自体が比較的珍しいのに、この日はさらに珍しいウィーン稿での演奏。ウィーン稿は最初の稿から四半世紀のち、8番を書いた直後の円熟期を迎えたじいさんブルックナーが筆を入れた曲なので、若い頃のリンツ稿に比べると変にゴージャス。やっぱりアンバランスじゃねという印象を持つのは聴衆も専門家も同様らしく、録音もウィーン稿は少数派だ。我が家にはシャイーの指揮でウィーン稿のディスクがあるが、この改変のために9番の完成が遅れたのかもしれないと思うと、なんでそんなことをしたのかと残念に思いたくもなる妙なゴージャスさ。

それだけにウィーン稿の生演奏を聴けるのは貴重な経験だとも言える。さらにこの日ステージに立った山形交響楽団演奏家が60人以下(?)の小さなオーケストラ。常日頃は巨大オーケストラで演奏されるブルックナーとは違うブルックナーが出てくるのか、それもまた楽しみという演奏会だった。

でも、この日はよい演奏に出会える気がしていた。夏に初めて聴いた同じ飯森範親さんと山形交響楽団モーツァルトが殊のほかよかったから、この日もサムシングがあるんじゃないかと少し楽しみにして出かけた次第。いや、ありましたね。

普段のブルックナーと異なる小編成で、コントラバスや4本という編成なので、どうしても腰高の音になるのだが、不自然さはまったくない。会場のタケミツホールは小さなオーケストラにとってはベストフィットの中規模のホール。残響はしっかり乗り、音の分解と一体感とがいい按配に配合されているので音が小さくて物足りないという感覚は微塵もない。

そんなオケが強奏すると、管の音が常よりも前面に出て、トランペットやトロンボーンなどの音は存在感を増す。そこに鋭角的な音響を備えた挑戦的なブルックナーが立ち上がる。あるいは必ずしも音量があるわけではないこの楽団のフルートなど木管群がしっかりとその存在を主張し、スコアが見えるような気分になる。飯森さんの音楽はリズムをしっかりと表現し、ここでどの音を聴かせるのかについて持っているビジョンをはっきりと提示するので、曖昧さのないストレートな音楽が鳴り響くのでる。これがたいへん気持ちよい。響きは硬質の方向により、弱音や柔らかさに基盤を置く演奏とは正反対のブルックナーだった。1番に相応しい解釈だったように思う。なによりも「私達はこういう音楽をやりたい」という方向がくっきりとした、迷いのなく演奏が会場に満ちるのに引き込まれることになった。

演奏会で生の演奏を聴く楽しさはこういうものだなと感じさせられる演奏だった。家で聴く録音は、長く付き合う必要があるので、どうしても自分の好みに合った解釈のものを選ぶことに目が向く。でも、演奏会では、少々自分の趣味とは肌合いが違うと思われても、主義主張が一貫している演奏に出会えれば、そのことによって喜びが生まれる。そうした邂逅の典型的なケースとして、この日の演奏は見事だった。指揮者の解釈がしっかりと楽団に共有され、個々の能力では目を見張るというほどではない楽団がひとつの生き物のように音楽を紡ぎだす。前日のブラームスとは、まるで正反対、大勢の合奏の楽しさを実感できた夜だった。

それから、蛇足だけれど、第4楽章のエンディング、大団円に向けて腕を振り回す飯森さんの手から指揮棒がぴよーんと飛びあがり、くるくると回りながらマエストロの前に落ちていったのはびっくりした。鳴り響く音楽にはいささかの影響もなかったが、見ている方はちょっと驚きました。