東京交響楽団でブラームスの交響曲第4番を聴く

昨日のエントリーの中で今日の東京交響楽団のコンサートの感想を書くと宣言してしまったので書き留めておくが、先回りして言ってしまうと、今日の演奏会に対する個人的な感想は残念ながらいまひとつだった。昨年、一昨年とブルックナーを何度か聴いてとても素晴らしかったので、今年は東京交響楽団を意識して聴きにいっている。今年に入って3度目。たまたま面白くない演奏に当たるはずれの運なのか、楽団の本拠であるミューザ川崎の音が自分の性に合わないのか、その両方なのか知らないが、毎度納得して帰宅するという風にいかない。今日もそう。

今日はソリストにアンサンブル・ウィーン=ベルリンというウィーンフィルベルリン・フィルの名手からなるアンサンブルが招かれていた。そもそも、このチケットを買ったのは、そのアンサンブルの一員であるフルートのヴォルフガング・シュルツのモーツァルトを聴きたかったから。シュルツさんは70年代から80年代のウィーンフィルを聴いていたリスナーにとっては懐かしい名前で、ヴェルナー・トリップと並んでウィーンフィルの首席フルート奏者として名を馳せていた。もうかなりのお歳のはずだが、ここで聴けるなら引退する前に一度聴いておきたいと選んだ演奏会である。

ところが、チケットを買ってひと月もしないうちにそのシュルツさんの訃報に接することになってしまった。結局、ヴォルフガング・シュルツのモーツァルトは聴けなかったなという余計な喪失感を背負い込んで出かけた演奏会。演奏されるはずだったフルート協奏曲第2番の代わりに演奏されたモーツァルトのホルン協奏曲第4番を含めアンサンブル・ウィーン=ベルリンの達者さは期待に違わぬレベルだったが、オーケストラが奏でていた音楽の印象にはもどかしい部分が残った。後半に演奏されたブラームス交響曲第4番をなんと形容すれば分かりやすいのか。アンサンブルは調整され、演奏のスタイルはオーソドックス。しっかりとしたブラームスと受け取る向きがあっても不思議ではない。

ただ、突き抜ける部分がない。きれいなアンサンブルを目指しているだろうことは分かるのだが、一方でプレイヤーの主張はおとなしく、個性的なものは希薄で、どこか予定調和の枠の中で破綻はないが驚きもない演奏が展開される。こういう風に聴こえたのは、つい2週間前にブロムシュテット指揮のN響で企みと自発性が前面に横溢する演奏を聴いたからに違いなく、今日の東京交響楽団の演奏に対してオーソドックスでよい演奏という類の評価を与えても差支えはないのかもしれない。ただ、僕の気分はそういうふうには表現できない。

責任は指揮者にあるのだろう。この楽団は、もっと癖のある、自己主張する個性が率いないといけない。調整型の指揮者が演奏家の人たちに多くを求めないと、こんな予定調和的見本演奏のような、決して悪くはないがドキドキもしない演奏を聴かされることになってしまうような気がする。おしなべてオーケストラはそんなものかもしれない。つまり、結局オーケストラは指揮者次第(真逆の表現で、オーケストラは団員の腕次第と言ってもいい。でも、言いたいのはほぼ同じことだ)。だとしたら、今日は、起こりえることが起こるべくして起こったということになるのだろう。今シーズン、同じオーケストラであと2回のコンサートを買っている。ぜひ、一度は突き抜ける演奏を聴きたい。