記憶力という以前に

先日のエントリーで記憶力の減退という話を書いてみた。コンサートで音楽を聴いても、それがどんな演奏だったかをすぐに忘れてしまう。今までに比べて忘れる速度が急速に上がっているという実感を述べてみた。

ところが、ブログで文字にするとあらためてその内容について心にかけることにもなるので、書いたあとの自然な流れのなかでとろとろと考えを進めてみることになったのだが、すぐに自分が書いたことは少し違うのじゃないかと思い始めた。もちろん、記憶力の衰えはあるだろう。でも、衰えはそこよりもさらにその前のプロセスにありそうだ、そう思い直した。記憶できないのではなく、そもそも、音楽を聴けていないのじゃないか、理解し把握できていないのじゃないか。そう思ったのだ。

言い方を変えると、ここ数年、日常の中で出会う紛れもない事実を音楽鑑賞に当てはめてみたと言っていい。人の会話に微妙についていけない。少し難解な本が読み続けられない。文章を書くのが億劫に感じる。頭の働きの鈍化を告げるそうした事象が日常茶飯のこととして発生しているのであるからして、音楽を聴く行為の最中に同じことが起こっていたとしても何ら不思議ではない。いったんそう思い当たると、それは至極自然な解釈と感じられ、なーんだそういうことかという感じ。どういう感じ?とそれを感じるままに説明するのはなかなか難しいのだけれど、客観的に説明するとすれば、お脳のCPUが動作のスピードを下げ、その結果、瞬時に変化する様々な音の流れをつかまえきれない、それがおそらく僕の脳の中で起こっていることではないか。

記憶のためのハードディスクがイカれているというのではなく、そもそも情報処理が追いついていない、その結果として、頭のなかになーんにも残っていないというのが今起こっていることではないのか。あらためて状況を思い出してみると、自分にとってそれは非常に納得のいく解釈のように思われるのである。音楽の解釈はリアルタイムの情報処理を余儀なくされるのであるから、それができていないという方が、簡単に忘れるという以上に問題が大きい。でも、おそらくそれこそがいま起こりはじめたことなのだ。

前回のエントリーに心優しき先輩である下川さんが前向きな慰めのコメントをよこしてくれたが、僕も実は今起こっている現実をことさら後ろ向きに考えようとは思わない。少なくとも感傷的に反応しようとは思わない。起こっていることは楽しいことではないのだが、エントロピーの増大は世の理であるのであれば、そこでネガティブに反応してしまったら次はないじゃんと考える次第。そんな風にとらえないと次はないと思う次第。

で、この続きはまた気が向いたら。明日はまたコンサート。ミューザ川崎で東京交響楽団モーツァルトブラームス。ちょっと気合を入れて聴いてきます。どこまで、なにが聴けるのか、ともかく感想はブログに書いてみるつもりでいます。