ハーディングと新日フィルによるイェルク・ヴィトマンの『トイフェル・アモール』

ハーディングと新日フィルによる6月28日のコンサートでシベリウスシューマン交響曲にサンドイッチされて演奏されたのはイェルク・ヴィトマンの『トイフェル・アモール − シラーによる交響的頌歌』という昨年出来上がったばかりの大作。本邦初演である。

新日フィル定期会員の友人に「シベリウスの5番とシューマンの3番をハーディングが振るから、もしよければ」と席を譲っていただいた時から曲が始まる瞬間まで、当の現代曲はこれっぽちも眼中になく、だから全く先入観のない白紙の状態で、結果的に虚心坦懐に聴くことができたのだが、これはなかなかに聴きごたえのあるピースだった。

当日のパンフレットによると、作曲家のヴィトマンは1973年生まれと、まだ40歳そこそこの若さだ。この曲はシラーの『トイフェル・アモール』という詩に触発されて作曲されたとのことだが、その詩というのはほとんどすべてが失われてしまい、「甘美な愛はとどまり続ける/旋律の飛翔の中に」という一節だけが残されている代物なのだという。シラーの詩や頌歌に寄せた音楽作品と言えば、誰もがベートーヴェンの第九を思い出す。あるいはシューベルトの歌曲でもいいが、そういう先人のひそみにならいたいという、これは作曲家の野心を衆人の目の前に示した作品ということになる。やはりプログラムによれば、この作品はウィーン楽友協会、パリのシャトレ座、ケルン・フィルハーモニーアムステルダム・コンセルトヘボウという欧州の大きな音楽団体・劇場が共同で委嘱したものだというから、この人はそもそも相当の実績と人気とを有している作曲家なのだろう。という感想しか出てこないほど、最近の現代曲のことはまるで知らないし、そもそも現代音楽の知識は大して持ってもいない、なまくら刀のごとき一聴衆なのである、私は。

というなまくら聴衆の前で鳴らされた音楽はどんなものだったかというと、音高も聴き分けられないような低いチューバの単音が切れぎれに提示され、その音が少し高いトロンボーンに受け渡され、次第に木管楽器や弦が絡んできて、とこんな風に書いても何も伝わらない。ところせましと並べられた様々な打楽器が端的に表していたのだが、弦楽器の胴を打楽器として利用したり、フルートを尺八のように使ったり、導入部の間のとり方は武満や日本や東洋の音楽を想起させもする。音響的には実に幅の広いスペクトラムを持っており、セリー的な音響を含めて様々な音が鳴る。

ただ、様々には鳴るのだが、拍はきちんとあり、時間とともにメロディもしっかりと入ってきて、それらはところどころでショスタコーヴィチマーラーや、メシアンを思い出させるような、どこかで聴いたことがあるような音や動きをみせる。先ほど少し書いた静の始まりから動のクライマックスを持ち、しっかりとした終わり方をする曲の構造は、ものすごく分かりやすく、伝統的なオーケストラ音楽の枠の中にしっかりとおさまっているのだ。そういう意味で、この曲の持つ世界観は、すでに既存の世界の枠組みに組み込まれた20世紀音楽のそれを踏襲しており、そこから出ようとする意志は微塵も感じられない。かつては新しかった表現要素が、一皮むけた洗練も明らかに提示されているが、最終的に出来上がっているのが大時代的なオーケストラ音楽であるという意味でも、つまり20世紀の音楽が目指したような、一瞬前までの時間を否定しようとする革新性とは無縁の音楽なのだということが分かる。革新を担ったスタイル、革新が自身を表現しようとしたスタイルも、それらが受容され、新しい世代によって古典として噛み砕かれた後には、「それはそういう技巧を用いているのだね」という風に理解されるばかりなんだなということが、この曲を聴いた後にくっきりと意識された。ということは、かつて我が国で「現代音楽」と呼ばれた類の音楽を、ひとつの古典的分類として消費したがるような層が欧州あたりにはいるということなのだろうか? 20世紀はパレットの色のようなものとして、維持されているのだろうか?

ハーディングと新日フィルがこの曲に先立って演奏したシベリウス交響曲第5番は、温度感の低さに違和感を覚えたと昨日書いたのだけれど、この『トイフェル・アモール』の処理について言えば、見事なものだったといってよいのではないか。概して日本のオーケストラは、20世紀の音楽を演奏するのがうまい。というか、西洋の合奏の伝統や歌いまわしとは距離を置いた楽譜に対した時に、機能的には全然負けていない日本のオーケストラは、西欧の有名オケにはない、くっきりとして、見通しのいい音楽を提示してくれる。そういうところが、この曲の扱いにおいても如実に存在していたように思う。

ハーディングは、シベリウスの気分をそのまま引き継ぐように、下手をすればけっこうグロテスクに聴こえたかもしれない曲を、抑制の効いた、理知的な解釈で乗りこなした。この曲が技法のごたまぜなのに、一貫し統一感のある、というように聴こえたのは、多分ハーディングの指揮のおかげだ。シベリウスシューマンとは違い、当然だけれどきっちりと変拍子を刻み、細かい指示をオーケストラに与えるハーディングの指揮姿には、職人としての実力がくっきりと見えていた。

やはり、シベリウスはこの曲の前奏曲だったのかもしれない。