「さよなら、フルビー君」

カール・フルビー著『アントン・ブルックナーの思い出』から、交響曲第9番と『テ・デウム』に関するくだりを見つけてそこだけ文字にしてみる。ブルックナーのお弟子さんだった著者が、ブルックナーから9番が完成しなかった時には『テ・デウム』を終楽章として使ってほしいと言われたという部分である。ドイツ文字に悩まされ、一字一字を確かめながら訳してみた。

私が最後にブルックナーに会ったのはアルサー教会の前だった。彼はちょうどミサが終わり、出てきたところだった。教会の聖歌隊長から特別に請われてオルガンパートを演奏してきたのである。私はプロフェッサーとしばらく会っていなかったので、病苦と老いとで彼が荒廃させられいるさまを見る準備がまったくできていなかった。私は愕然とし、そして自分自身の動揺を先生に悟られないよう懸命に内に隠そうとした。ブルックナーは、死の予感にさいなまれていた。彼を不安に陥れていた考えはただひとつ。すなわち、自身の第9交響曲が完成しないのではないかという思いである。
「第9番には、力の限り取り組んできた。この歳と病気ではもうできないかもしれない。もし、完成できなかったら、そのときは私の『テ・デウム』を第4楽章として使ってほしい。3つの楽章はほとんどできた。この作品は私の主のものだ」
私たちはショッテン門のところで別れた。
「お会いできて光栄でした、プロフェッサー」
「さよなら、フルビー君」
それが、現世におけるアントン・ブルックナーと私の最後の邂逅だった。

著述家としては素人のフルビーが、刊行から遡ること7年前の出来事を思い起こして文字にした記録。どこまでが文字通りのブルックナーの言葉なのか、どこからがフルビーの創造なのかは判然としないけれど、これが音楽学者のDermot Gaultさんが2011年に著した『The New Bruckner』で紹介していたフルビーの記録の日本語訳。当たり前だが、おそらく本邦初公開。

ただ、日本語版のウィキペディアでは、同じ年の1984年にブルックナーウィーン大学の講義でまったく同じ趣旨の発言をしたことが記されている。調べてみると、大阪大学教授の根岸一美さんという音楽学者の方が2006年に音楽之友社から刊行した『ブルックナー』という著作があり、この話はここに出てくる。ウィキペディアは出典をどこにも書いていないが、根岸先生の本がネタである可能性が高い。ちなみに根岸さんの著書はブルックナーに関するいくつかのドイツ語の著作を主要参考文献として掲げており、この記述はこれらの著作に負っているものと思われる。ただ、根岸本には、フルビーの名前はまったく出てこない。有名なシャルク兄弟などと違って、この人は音楽家としては歴史に名を残す人ではなかったのだ。

一方、2010年刊行の『The New Bruckner』にはウィーン大学の講義の話はこれまた一言も出てこない。「第9の4楽章に『テ・デウムを』」という発言はフルビーの証言によると書いてあるのである。永眠に先立つ2年前の1984年当時、ブルックナーは複数の機会に何度もこの話をしたのか。それとも、いずれかの記述は間違いなのか。私は学者ではないので、こうした疑問にこれ以上立ち入る気持ちも、時間も、能力もないが、それでもなぜか気になるのは、ブルックナーの音楽に魅入られた者の業といえるかもしれない。

フルビーがブルックナーと最後に歩いたアルサー教会からショッテン門は、グーグルマップスで調べると、すぐに見つかる。おそらく300m、400m程度の短い距離だ。老齢の、おぼつかない足取りで歩を進めるブルックナー。脇に寄り添うフルビー。
「お会いできて光栄でした、プロフェッサー」
「さよなら、フルビー君」
歴史の彼方に、墨絵のようにかすむブルックナーの後ろ姿をフルビーとともに見送る。



(アルサー教会)