つながること、再び

ここしばらく、「消費のこと」に没頭していた。何をしていたか。我が家にあるCDを全部NASに入れていたのだ。いわゆるネットワークオーディオのユーザーに今年中になろうという魂胆なのである。リッピングは時間がかかる。毎日仕事から帰宅すると、せっせとCDをディスクに落とす作業に熱中した。3ヶ月以上かな。

「消費のこと」の磁力はバカにならない。いったん惹きつけられると、そこから逃れられずに毎日の時間をそこに投入することになる。それはそれでとても楽しい。坐禅の楽しさもこれに近いものがあるのではないだろうか。何も考えずに単純な行いを繰り返す類の行動。

ただ、「消費のこと」には大きな限界がある。どうしたって、どこかで飽きてしまうのだ。何故かと言えば、結局他人につながっていかないからだろうと思う。音楽鑑賞も同様。それが「消費のこと」にとどまるかぎり、それはむしろ無言の行に近い部分がある。

そこで私はブログに言葉を落としたくなる。一言書き連ねたくなる。すると、「消費のこと」は単に「消費のこと」に終わらず、小さな小さな生産行為となる。それはお金を生みはしないが、生産行為の端っこに連なる行いだという実感がある。生まれているものがある、という小さいが確実な実感がそこにはある。