マゼール指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団のブルックナー交響曲第3番

ロリン・マゼールが指揮するミュンヘン・フィルでブルックナー交響曲第3番を聴いた。プログラムの前半はタンホイザー序曲とヴェヌスベルクの音楽、トリスタンとイゾルデよりイゾルデの愛の死の2曲。プログラムの質と量を考えると思いがけないことだったが、アンコールまでも用意されており、これがマイスタージンガー前奏曲だったので、ブルックナーワーグナー管弦楽名曲集で包んだコンサートだったことになる(2013年4月18日、サントリーホール)。

目の醒めるようなコンサートだった。いや、その反対で夢の中のようなコンサートだったというべきか。
先日ブログに自分のためのように書いたことだけれど、その曲の純粋なイデアを明らかにする演奏を探すような聴き方をしていたもう少し若い頃の自分だったら、到底マゼールは受け入れ難い指揮者である。だから、そもそもこの日のコンサートをめがけて出かけることもしなかっただろう。偶然が重なって何度か体験したマゼールの実演の記憶と、自分自身の、音楽へのアプローチに少しだけ余裕が出てきたことで実現したこの日の体験は忘れがたいものになった。

ミュンヘン・フィルは素晴らしかった。昨年の秋から久方ぶりにコンサート通いを復活させ、今年は毎月東京のオケを聴こうと思っているのだが、そこには一昨年聴いた東京交響楽団の好印象がひとつの契機になっている。日本のオケも昔に比べて上手になったし、十分に楽しめると感じたのがその理由。しかし、今回のミュンヘン・フィルを聴いてしまうと、同じオーケストラなのにまるで次元が違うと思わざるをえない。技術的にはかすかな違いであるはずなのに、聴こえてくる音楽の内実にははるかな差が感じられてしまう。何が違うかと言えば「まとまり」である。音楽の解釈、音の質の両方の面で、ミュンヘン・フィルの紡ぎだすワーグナーブルックナーには統一感が溢れている。タンホイザー序曲の始まり、ホルンとクラリネットがひとつのゆるい流れを作り出し始めたとたんに「えっ」と神経がそよぎ、弦楽器が同質の柔らかさでその流れを大きくしていくのを聴いただけで恍惚の気分が訪れてきた。後半のブルックナーの素晴らしさはそれ以上だった。

この気分はおそらくドイツのオケを久しぶりに聴いたことから出てきたものだろうし、クナッパーツブッシュチェリビダッケとワグナーやブルックナーを演奏してきたこの団体ならではの遺産が残っているという特別の理由があるかもしれない(そんなものはないかもしれない。よくわからない。でも、ミュンヘン・フィルというと、僕はすぐに音の悪い録音でしか知らないクナのブルックナーを思い出す)。つまり、僕が聴いたドイツのオケという観念が正当なものか、印象が他の人にも通じる普遍的な意味合いを持っていたかについてははなはだ心もとないのだが、ともかくも、この瞬間が終わってほしくないと思ったコンサートは久しぶりで、ブルックナーが鳴り終わった後は拍手をする余裕もなかった。

もう少し、マゼールのことなども感想を書きたいが、それはまたあらためにしたい。