だまし絵みたいな話

たった数日の滞在でインドは広い国だなと感じ入ったのは、言葉だな。言葉です。

現地で教わったところでは22の言語が国の言葉として規定されているということらしく、大まかに言っても州によって言葉が違うらしい。らしいとしか言いようがないのは、そう聞いたというだけで、何がどう違うのかほんとのところははさっぱり。

僕が訪ねた会社が立地していたのは、マラーティー語という言葉が共通言語の地域だったが、南の地域の生まれである従業員氏は、マラーティー語が分からないので、会社や町では英語でしか意思疎通が出来ない。同じインド人とは言っても、それじゃ僕とあまり変わらないじゃん、まるで外国人同士じゃんと思って、「一つの国じゃないみたい」と率直な感想を口にしたら、話をしていたお兄さんは「そもそもイギリスの支配のせいで無理やりに一つの国になったんだから、それは正しい」とおっしゃる。国へのアイデンティティってないの?と尋ねたら、「ない」とも。アイデンティティを感じる単位って何?と訊いたら、少し考えて「自分にとっては州だ」と。マラーティー語の使える単位だと。

この話は今日のところはどこにもつながらない。ただ、単純に面白いな、日本にはありえない話で新鮮だな、と思った昨年の思い出話を綴っているにすぎない。

でも、それにしても。日本はどこに言っても標準日本語。井上ひさしの『國語元年』のような話を地で行っている国がいまだにあるのに、『國語元年』から百数十年を経た日本は縮むだけ縮んでしまったので、福岡の人も、大分の人も、広島の人も、京都の人も、みんな擬似東京弁で通じちゃうもんね。

通じるは縮む。通じないは広がる。欠落は可能性という話。なんだか、だまし絵みたいな話。