生まれて初めての『シンフォニエッタ』をiPhoneで聴いた

iPhoneを3Gから4GSに変えてよかったのは、バッテリーがもつおかげでインターネット・ラジオを聴けたりもすることで、時々だけれど、海外の番組を流しっぱなしにしたりして歩いている。

今日の帰宅時、電車の中でそのラジオを何十年ぶりかにNHKのFMに合わせたら、たまたまNHK交響楽団の定期公演を生放送しているのにぶつかった。それがヤナーチェックの『シンフォニエッタ』を演奏する直前、アナウンサーが曲目を紹介し始め、舞台の上に指揮者が登場するというタイミングだった。

その時、私の手の中にあったのは村上春樹のインタビュー集で、その中では村上さんが次の小説(『1Q84』)について話をしているのであった。『1Q84』といえば、『シンフォニエッタ』がテーマミュージックのように扱われている小説である。こういう偶然をなんと呼べばよいのか。さらに言えば、私自身にとって、これは『シンフォニエッタ』を生まれて初めて聴く機会だったのである。

年がら年中クラシック音楽ばかり聴いているけれど、聴いている曲目はごく限られており、ヤナーチェックなんてまるで門外漢である。オペラの『イェヌーファ』はたまたまラトルとフィラデルフィア管弦楽団で聴いたことがあり、ずっしりと重たい石を両手に抱えさせられたような感銘を受けた経験はあるが、だからと言って「ヤナーチェックを聴いてみよう」とは思わないところが保守的だと自分でも思う。『1Q84』が世に出た頃にCD屋に行くと、どの店も競って「『シンフォニエッタ』はこちら!」と宣伝をしていたが、とくに聴こうとも思わなかった。そんな訳で、思いがけない『シンフォニエッタ』初体験となった。

まぁ、分かりにくい曲である。これが一体どんないわれを持つ曲なのか、ヤナーチェックにとってどのような位置づけの曲なのか、まったく知らない。ただ、村上春樹が取り上げなければ、少なくとも日本国の一般人が好き好んで聴こうと思うような曲ではないのはどうやら明らかである。

最初から最後まで、非常にメロディックな作りの曲だが、そのメロディは民族色が強い聴きなれないものだし、単一のメロディが発展的に用いられるというわけでも、ソナタのようなかっちりとした構成観を備えているわけでもなく、さまざまな楽器がさまざまなメロディを今そこで思いついて好き勝手に鳴らし続けているという印象すら受ける。メロディは比較的わかりやすく、メロディラインと伴奏の役割とがかなり明確に役割を担わされている。その意味で局所的にみればオーケストレーションは単純な作りだが、その役割をあれこれの楽器がてんでバラバラに担う感じで、わかりやすい和声や調性感がはっきりとしたメロディが微妙にずれたり、様々な色合いに変化したりと落ち着く暇がない。ドイツの音楽のように楽曲がそれ自体の必然性にしたがって発展をしていくといった様子がまるでなく、あたかも作曲家がこの瞬間に悪い夢の最中で呻吟しているように感じられてしまう。どの奏者がどの部分で何を表現しようとしているのか、腑に落ちるような、落ちないような、という宙ぶらりんの気分が続き、次の展開が読めないのはリアルな夢の中にいるようだ。

最初のファンファーレが最後に戻ってきて曲が幕を閉じようとすることが分かると、この曲はちゃんと箱型の構造をしているのだと思い、なんだかほっとするような気分になった。よく聴けば、この曲なりの構造を示しているのだろうが、iPhoneから聴こえてくる音楽はとてもそんな風には聴き取れなかった。

この曲をよくご存じの方は、こうした感想をどういう風に読むだろうと思いながら、以上のような感想を書き記した。二度目に聴くときにどんな感想を抱くだろうという興味も自分自身に対してある。その時のための備忘録のようなものだ。ただ、果たして二度目を聴くのがいつになるのか、そもそも二度目があるのかはよく分からない。音楽に関する限り、いろいろな曲を聴きたいという欲求が最初から強くないのは、音楽のどこかに自分の似姿を探すような聴き方をしているからだろう。自分以外に自分はどこにもいないのだから、もっとオープンであってよいはずだが、それができないのが自分ではどうにも制御できない自分自身ということになるのだろう。