そのコラールを倍の速さで

教えてもらったサイトウ・キネン・オーケストラのブラ1の映像がとてもいい。出勤途上のiPhoneで繰り返し再生し、家に帰るとパソコンで見る。ということをしていると、正規録音の方も聴いてみたくなる。小澤とサイトウ・キネン・オーケストラブラームスは、2番から4番は発売されてからしばらくした頃に買ったが、1番だけは持っていなかった。中古屋で当のディスクを見つけて買って帰る。

そこで一聴、また驚いた。例のフィナーレ。なんとケレン味ティンパニはどこにもないのである。

YouTubeの映像はロンドンのロイヤル・アルバート・ホール。僕も一度聴いたことがある夏の音楽フェスティバル「プロムス」でのステージだ。これに対し、フィリップスの手になるCDは、その演奏の直後、一連の欧州公演の最後にベルリンのシャウシュピール・ハウスで録られたものだ。

これがどうも楽譜通りの様子なのである。少なくとも、今回こだわったティンパニについてはそう。こういうことは事情に詳しいファンの方にはよく知られていることかもしれないが、僕はそういうことをまったく知らないので驚いてしまった。演奏はナマモノだから、ライブと録音セッションとで印象が変わることはしばしばあるとしても、同じ時期の演奏で楽譜が違うということが、ままあることなのか?

それは普通はないと考えると、ロンドンでの演奏は小澤さんの意向か、それともtsuyokさん(id:tsuyok)が示唆しているようにティンパニ奏者であるファースの独断、スタンドプレイか? だいたい、70年代に僕が初めて小澤さんでこの曲を聴いたときに件のティンパニは間違いなく添えられており、それで一種のショックを受けたのだったが、その録音の出所がなんだったのか。10代の頃のことだから、音楽はだいたいラジカセでFM放送のエアチェックをして聴いていた。そうしてカセットにちまちまと録音し、とくに気に入った曲や演奏家が見つかると、なけなしの小遣いでレコードを買う。そんな頃に聴いた録音だから、これもおそらくメディアはFM。その先が正規録音のレコードだったか、それともどこかのホールでのライブ録音だったかまでは記憶にない。

その半日後に、家のディスクに残っていたNHKの番組を再生してみたときに、まったく偶然に問題の箇所が出てきたので、またびっくりしてしまった。一昨年の9月に放送された、小澤さんの復帰を扱った『世界のマエストロ・小澤征爾 入魂の一曲』という番組がある。その冒頭に小澤さんとサイトウ・キネン・オーケストラを小さく紹介する場面があり、一瞬だが、かつてのブラームス交響曲第1番の演奏がナレーションの背後で流れていのである。その極く細切れの、数秒の映像が、例のファンファーレで、映っているホールはベルリンのフィルハーモニー。ということはロンドン公演直後の演奏会である。

ここでもファース氏は盛大にティンパニを鳴らしていた。ということは、これは一奏者のスタンドプレイということではおそらくなく、この欧州ツアーでは一貫してティンパニ入りのコラール風ファンファーレが鳴り響いていたということなのではないかと想像できる。

だとすると、ツアーの終了の最後にベルリンで行われた演奏で楽譜通りになっているのはなぜだろうという疑問が当然のように湧いてくる。小澤さんの全面的な意向か、フィリップスのプロディーサーのアドバイスがあったのか、その他の誰かの何かがあったのか、なかったのか?

ティンパニ入りと比べると、ない演奏の印象はかなりすっきりするわけだが、これとて小澤さんの演奏はこのコラールに思いれたっぷりで、エンディングに先立って大きな山が築かれている。でも、そもそもこの一つ目の山が山として必要かどうかについては、最近の演奏スタイルが問うているところでもある。

このことに最初に教えられたのはガンサー・シュラーの『The Complete Conductor』(完全無比の指揮者)という1997年に出た本を読んだとき。僕は聞いたことがない人だが、シュラーという人はクラシックとジャズの二つの分野でアメリカでは著名な音楽家らしく、日本語のウィキペディアにも記述がちゃんとある。

■The Complete Conductor (Amazon.com)

■ガンサー・シュラー(Wikipedia)

この本はベートーヴェンとブラームスのそれぞれ2曲の交響曲、リヒャルト・シュトラウスの『ティル・オイレンシュピーゲル』、ラベルの『ダフニスとクロエ』、シューマンの交響曲第2番、チャイコフスキーの『悲愴』という有名オーケストラ曲を取り上げ、それぞれいくつもの著名指揮者の録音を参照しながら、これらの曲はどのように演奏されるべきかを著者のシュラーさんの分析を踏まえて解説していくという内容のもの。たいへん面白い本なのだが、基本的に楽曲分析の本であり一般向けではないことと、おそらくシュラーさんの見立てが彼の趣味に引きづられているというか、少々(あるいは「かなり」)独断に感じられるからだろう、日本語版は出版されていない。

この本の中でブラームスの交響曲第1番が取り上げられており、最後のコラールの部分についても若干の記述がある。

残念ながら、ほとんどの指揮者が、このコーダのコラールを重たく、力強く表現しようとする。ブラームスがあたかも「メノモッソ(今までもより遅く)」か、「ピュ・マエストーソ(今までよりも荘厳に)」あるいは「ラルガメンテ(豊かに)」、その他の遅いテンポの指定をしているかのように。ブラームスがこのコラールを勝利の栄光の輝きを表現するものと考えたのは間違いなく、悲壮でメランコリックな祈りの表現ではないのである。

このすぐあとの文章で、再びテンポを上げて一直線にエンディングに向かうのは安っぽい慣習だとシュラーさんは切り捨て、オリジナルのテンポを守って適切な効果を上げている数少ない例として、ラインスドルフとスクロヴァチェフスキの録音があるから聴いて欲しいと述べている。

僕はシュラーさんが挙げた二つの録音は聴いていないが、ちょうどこの本を読んだ頃に出ていたアーノンクールとベルリン・フィルの録音がこのインテンポ主義だった。その後に聴いたものでは、ベルグルントとヨーロッパ室内管弦楽団の録音も同じ流儀である。もしかすると、他にもこの解釈を採用する指揮者は増えているのかもしれず、僕が他の例を知らないだけかもしれないと思ったりもするが、それはさておき、たしかに楽譜を見ると、ここで大コラールが思い入れたっぷりになるのは、まったくの指揮者の独自解釈であることが分かる。楽譜の通りのアーノンクールらの演奏で聴くと、歌舞伎役者が大見得を切る場面が根こそぎなくなっている感じがして大いに面食らう。最初に聴いたときには、「なんとケレン味のある、いやらしい解釈であろうよ」といぶかしく思ったのだが、実はその他大勢の解釈の方がケレン味入りの独自解釈であり、アーノンクールのやり方が楽譜通りの演奏だったのだ。

最初は「変な演奏」と思ったアーノンクールだが、これが作曲者の意図にかなった演奏だと思って何度か聴くと、従来の倍のテンポに引き伸ばされたコラールがやりすぎなんじゃないかと感じられる瞬間もあるので不思議なものだ。少なくとも、ブラームスは頂上に至る直前、ここで大きな山を作ることは考えてなかったと考えると、コーダ以降の音楽の作り方はかなり違ってくるはずだ。

でも、欧州でも、アメリカでも、日本でも、プロも、アマも、この部分を楽譜どおりにインテンポで弾く例はいまだにほとんどない、というのはどういうことなのだろう? 誰がどういう理由でそう弾きなさいと教え続けているのだろう?

小澤さんとサイトウ・キネン・オーケストラの超大見得は、こうした原典主義と真反対のやり方で演奏家の独創性を主張する。これらの二つの流儀を交互に聴くと、こんなにも演奏によって印象は変るものかと驚いてしまう。

ケレン味と見えるものの中に表現者の乾坤一擲の思いがこもっている場合があるということをマジに考えてみる。そういうものを面白がらないと、死ぬまでの時間はどんどんつまらなくなっていきそうだと、自分に向かってもう一度言ってみる。これはそういう類の文章である。


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