がんばること

昭和30年代半ばに生まれた私が子供の頃は、私たちの親の世代、年長の世代がそうであったように、当然のように競争のなかに投げ込まれ、がんばって上を目指すことをよしとし、そのように生きてきました。それはがんばって、自分の能力を十分に発揮すれば、それによってご褒美があるという世の中だったからでした。端的にそれを示すのが、GDPとともに毎年伸びていく給与という現実でした。

でも、と思います。もしかしたら、と考えたりします。私がずっと無意識に信じていたのとはちがって、国民のがんばりがGDPを伸ばしていたわけではないのではないか。もちろん、それは真実である部分もあるでしょう。でも、ある部分では、その逆が真実であったということもあるのではないか。つまり、GDPの伸びが、給料の伸びが“がんばる私”に正当性を与えていたのではないかという意味です。どうでしょうか。

こんな風に一種の思考実験をしてみると、この時代に「がんばれ」ということの難しさがくっきりと照射されます。前回のエントリーで書いたとおり、私は受験生である自分の息子に向かって「がんばれ〜」などとポストモダンな掛け声をかけるのですが、いったい何のために「がんばれ」というのか。がんばることの正当性、妥当性はどこにあるのか。がんばることで給料が上がったり、物質生活が豊かになるとは限らない。いえ、彼や彼女に明らかに人とは異なる能力や才能がない限りは、がんばたって、そんなに結果は変わらないというのが多くの人々にとって現実です。そんな社会を私たちの子供らは生きています。

じゃ、がんばらなくっていいのか。そう問いかけてみると、思考はもう一回転し、物質主義とは違う、がんばることの意味が見えてくるのではないか。実に難しい時代に我々は生きています。もしかしたら、面白い時代なのかもしれません。