翻訳者の技

翻訳者は上手に事を運ぶ。ある言語と別の言語とをつなぐ際に、受け取る側の社会や文化のありように照らし、読者に受け入れられる言葉を探していく。
とくに話し言葉には、その傾向が強く表れるように思う。

昨日取り上げた『46年目の光』にこんな表現があった。眼科医のカーソンが、視覚障害のある主人公と初めて対面した場面である。

「私に診せてもらえませんか?」と、カーソンが言った。「10年も医師の診察を受けていないのはいただけませんね」

原文はこうだった。

"How about if I take a look?" Carson asked. "That's a long time to go without seeing a doctor."

「That's a long time to go without seeing a doctor」は、僕が普通に直訳調で訳せば、「医者にかからない時間としては、10年は長いですからね」ぐらいだろうか。それがプロの翻訳家の手になると、「10年も医師の診察を受けていないのはいただけませんね」になる。

「いただけませんね」という、いかにも日本の医者がとりそうな、上に立って自らの影響力をことさらに行使するような言葉遣い。それによって、我々日本の読者は、すんなりと、(いかにも日本ではありえそうな)医者と患者の会話に入っていくことができる。翻訳の妙というべきだろう。

しかし、本当は、そこで語られていた言葉は、「That's a long time to go without seeing a doctor」なのだ。隣にいる患者の人格を尊重し、水平に滑っていく言葉。もちろん、そんな場面ばかりではないが、アメリカで人と接するときに開放感を感じることがあるのは、この例に表れているように、多くの場合日本にはないフラットな表現が二者の間を行き来するのを知るときだ。

同時に私たちの原語空間で医者が語る言葉は、よくて「いただけませんね」であることをあらためて思い知る。日本の平均的な医者のフレーズならば「駄目じゃない」ぐらいが通り相場だろう。そのようにして、日本では、相手を否定することを含んだ表現が日常を行き交い、我々はその「駄目」「駄目」という語気の持つ、微妙な否定の放射能を浴びながら、おとなしくひれ伏して生きることに慣らされていく。


46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生

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