梅田さんの「残念」について

梅田望夫さんが、はてなブックマークには馬鹿なコメントが多すぎると発言したり、Webメディアのインタビューで、『ウェブ進化論』以降の日本での成り行きにがっかりしたという趣旨の発言をしたことに対し、多くの批判がブログ界に巻き起こった件については、興味を持ってそれらの反応を読んだ。あまり上手に咀嚼できている気はしないが、僕が理解した限りでは、梅田批判の視点は幾通りかに分類される。

第一は『ウェブ進化論』の記述内容や論理展開に納得がいかないというものである。これは『ウェブ進化論』刊行直後からウェブメディアやブログ上で見られた意見であるが、この亜種ないし発展系として、梅田さんが言うとおりになっていないじゃないか、あれは単なる理想論、絵に描いた餅に過ぎなかったんじゃないかというものがある。これが一つ目。

二つ目は梅田さんが「残念」と語ったことが転向であり、そのこと自体が残念である、あるいは許し難いというものである。『ウェブ進化論』で本当の進化が始まるのはこれからだと主張、インターネットの悪い面ばかり指摘していないで、よいところを見つけ伸ばしていこうと語って満場の拍手喝采を得た当の本人が、今の日本のウェブ進化のありさまは残念と言って切り捨てるとは何事だというのが、こちらの批判である。

三つ目は、いちばん単純で、論になりきっていずとも空気それ自体を意味しているという点では日本的で批判としては馬鹿にできないと思うのだが、梅田さんのものの言い方が高飛車で気にくわないというもの。はやり言葉だと「上から目線」というのだろうか、そういうえらそうな言い方しないでくれよな、という類の感想である。

僕の理解では、大まかに分けてこの三つに分類される。ここでは二番目の「残念」に関して、少し思うところを披瀝してみたい。

さまざまなメッセージが込められた『ウェブ進化論』を読んだ際、僕にとってとても印象に残ったのは、「総表現社会」の到来を告げるセクションでブログについて梅田さんが語っていた話のなかにある。個人メディアとしてのブログの登場と検索エンジンの進化によって、石の中から玉はより分けられ、従来存在した媒体の限界を超えて有益な情報がやりとりされるという話。その際、梅田さんが語っていたたとえ話があって、学校の教室を思い起こすと、上位3人だか5人だかの、できのいいやつ、きらと光るやつがいたが、要は彼らが情報発信をする手段が与えられる世の中が出現したのだと。本が手元にないので正確な引用はできないが、ともかく、それを読んだときに僕はひどく合点がいき、面白がったのを覚えている。

何が言いたいかというと、このときから、『ウェブ進化論』の時点から、梅田さんの論はできのよい上位にいる人たちのためのそれなのだということだ。『ウェブ進化論』に続く、平野啓一郎さんとの対談本である『ウエブ人間論』には、次のような下りがある。

平野:でも、その比喩で言うと、ネット参加者が増えていけばいくほど、ベストセラー的なものとネットの本屋大賞的なものというのは、一致していくんじゃないですかね。現に本屋大賞はそうなっていますが。

梅田:僕はネットによってこの社会が三層に分離していくと考えていて、要するに、今までの「エリート対大衆」みたいな二層の間に、十人に一人くらいの層というのを置いて考えてみたいと思っているんです。あまり今までは表現をしてこなかったけど、「中学や高校のクラスの上から五人」とか「親戚という小さなコミュニティで一番敬意をもたれている人」とか、その辺の層に僕は一番期待をしているんです。潜在的な能力が高いけれど、ただ今は社会的に沈没しているという人も結構たくさん世の中にはいて、特に日本の社会にはそういう人が浮上するメカニズムがない。彼ら彼女らがネットでそれぞれそれなりに筋が通ったことを言えば、世の中はずいぶんよくなっていくのではないでしょうか。
(『ウェブ人間論』p49)


梅田さんがそもそも『ウェブ進化論』で語りかけたかった層、自分の本の理想的な読者として想定した層は、つまりここで語られているような人たちだったと僕は思っている。ところが、ウェブの恩恵があらゆる層に及ぶかのような前向きの誤読が『ウェブ進化論』ブームを支えることになった。誤読は読者の権利だから、これについて読者を責めるのも、梅田さんを責めるのも、ともにおかどちがいである。ただ、一連の著作を書く中で梅田さんが「自分が思っていた以上に自分の論が届く層は広いのではないか」と考えた時期があったのはおそらく間違なく、それが『ウェブ時代をゆく』という実にユニークで多くの人たちを前向きな人生に駆り立てようとする素晴らしい一冊に結実したと同時に、今回の一連の騒動の下地をつくった。このことに対しては皮肉というほかはない。

疑問なのは、梅田さんが語る「残念」が、「十人に一人」に対する「残念」なのか、「十人に一人」が十人に二人、十人に三人へと広がっていかなかったことへの「残念」なのかについてである。僕は梅田さんがある時期、後者に対して期待を抱いた、その結果としての「残念」ではないかと勝手に想像しているのだが、こればかりは本人に訊いてみないと答えは分からない。