タングルウッド音楽祭

先ほど気がついたのだけれど、あと一月少々でアメリカ駐在を終えて横浜に戻ってからちょうど10年が経つ。僕にとっては「Only Yesterday」であるはずなのだが、しかし、そこに10年というレッテルが貼られると、とたんに時の容赦のない力が動き出すような気がする。10年前には小学校の1年生だった末の子供が、4日後には高校生活最後になるかもしれない野球の試合を戦う。どんなにそれが昨日のことにすぎないと頑張ってみても、時の勢いはとどめようがなく、気がつけば10年前の出来事は、すでにその多くが霞の向こうに消えつつある。

ボストン近郊在住の三浦真弓さんのブログでタングルウッド音楽祭のエントリーを拝見した。


■タングルウッド音楽祭オープニングウィークエンド(『オペラ・オペレッタ訳詞家の書斎』2009年7月5日)


霞の向こうから、ニューヨーク生活最良の一コマが蘇ってくる感覚に出会えた。自分にとっては思い出でしかないものが、もし飛行機と車を乗り継いで出かける気になれば、いまもそこにあって、同じ自然のなかで、同じ品質のくつろぎのひとときを与え続けているのに出会えると考えると不思議だ。この不思議の感覚は、人生というものの意味と結びついているのだろうと、ちらと思う。

4年間、夏になるとシーズンに少なくとも2回はタングルウッドに行った。シーズン前にニューヨーク・タイムズに掲載される全面広告を見て、出演する音楽家、演目を睨みながら、「これとこれと…」と選んで日取りを決める。車に夫婦と子供3人でハイウェイを北上する。子どもたちは、つい昨年だろうか、「嫌で仕方がなかった」と遅まきながらの不平をこぼしたが、まだ当時の彼らは小学校や幼稚園で、親はいかようにも制御可能だった。我が家からどれぐらいかかっただろう。200キロぐらい離れていたはずだから、たしか2時間半? ニューヨークの田園地帯をひたすら走り、バークシャーの背の高い松が並ぶ音楽のディズニーランドに到着する。

タングルウッドが音楽それ自体を聴く場所かと言えば、必ずしもそうではないだろうと思う。「Koussevitzky Shed」と呼ばれる椅子席を買わない我々家族には、オケが演奏する姿は見えない。その後ろに広がる広大な芝生の上にパイプ椅子を持ち込んで、ビールを飲みながらお昼を楽しく食べ、音楽に耳を傾けながらうとうとする。演奏するソリストや指揮者はビッグネームや期待の若手ばかりだが、音楽は巨大スピーカーから流れてくる色気もくそもないもので、正直なところ、我が家のステレオはおろか、ウォークマンを聴いていた方が音は何倍もいい。それでも、あの、青空にぽっかりと浮かんだ雲を眺めながらボストン交響楽団を聴く気持ちよさは格別だった。アメリカ人は、なんて馬鹿なことを考えるやつらだろうと思った。

ああいうイベントが何十年も続いているのは、それだけですごいことだなと思う。歴史の偶然と人のさまざまな意思が積み重なり、認知と評価が生まれ、ビジネスとしての価値がエンジンとなり、不思議の空間は生き続ける。あの人工性にこそアメリカが象徴されていると僕は思ってしまう。


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