「意識って何だろう」と星を見上げながらふと考える人のための本

会社で出している本を手にとって読んでみると、「これはいい本だな」と思うものは、そこそこ売れている。自社の本の売れ行きが、今の僕にとっては大衆という言葉を形にしたものとして存在している。目に見えず、どのような形をしているのか分からず、実態として存在するかどうかも分からない「大衆」というあやふやな概念が、本という商品に出会って、売れ行きという数字になった瞬間に、ふと顔を見せたように感じられる。

面白い本は売れ、つまらない本は売れない、というときの面白い、つまらないというとき、なんというか、こういうのはロボットにはできない表現だろうな、と思う。『PLUTO』の最終巻を読んだ直後に、そんなことを考えた。

面白い本は売れ、つまらない本は売れない。これが堅固な法則ならば、売れない本はつまらないということになる。まあ、だいたい、当たっているという納得の仕方はするけれど、「面白い」と僕が思うのに売れない本がある。これは当然といえば、当然で、大衆の価値観という物差しで考えたときに分布のど真ん中にいるわけではない自分に、はずれがあることは不思議ではない。ある物差しで測ったら「はずれ値」であるかもしれない自分というものに出会った気になる。私たちは、いったいいくつの物差しを使いながら生きているのだろう。

PLUTO』は、どんなに控えめに見積もっても、読んだ8割の人は面白いと喜ぶ物語である。僕もそう思う。しかし、僕は「面白い!」と思うのに、鳴かず飛ばずの本がある。今年の3月に刊行されたスーザン・ブラックモア著『「意識」を語る』は、脳科学の最前線で活躍する世界的な科学者16人に、自身もその分野に詳しい著述家のブラックモアが行ったインタビュー集で、これがそう。

登場する人物には、デネットとか、ペンローズとか、ラマチャンドランとか、この世界の有名人満載。一人一人の本がもてはやされる人たちだ。ブラックモアは、16人に同じ質問を繰り返す。そもそも問題は何なのか。脳が意識を生み出すという二元論は正当なのか。意識化された脳の働きと無意識のそれとはどう違うのか。自由意思は存在するのか。クオリアとは何なのか。エトセトラ。一冊読めば、脳科学が何を問題にしようとしているのか、脳科学者がどこまで何を理解しているのかが、おぼろげに分かる仕組みである。翻訳の山形浩生さんの訳が絶妙で、日本語は実に読みやすい。くだけた会話で成り立った一冊だから、僕のような脳科学のことにちょっと興味があるという程度の一般人に向けた絶好の入門書になっていると言ってよい。

ところが、現実はさにあらず。インタビュアーも、それを受ける側も、「そんなの当たり前」と考えているはずの基本的な概念のところでひっかかってしまうのである。「自由意思」「一元論」「クオリア」「デカルト劇場」といった言葉が飛び交うのを我慢し、注釈を読み、場合によっては自分でそれらの言葉について調べるという手間をかけないと、読んでいてもよく分からない。ある程度、こうしたことについて頭に入っていれば苦労はまるでないし、議論の流れ自体がそれらについての最良の説明になっていることから、我慢して読んでいると、あるときから急に楽になってそれ以降は俄然面白くなってくるのだが、一般の読者はそれほど悠長には付き合ってくれないだろう。最初の一人を読み終わったところで、「この本はなんだかよくわかんない」となってしまうかもしれない。

ソフトカバーで2,200円という定価も、本好きでなければ手を出さない理由をなしているだろう。それにしても、売れない。「こんなに面白い本が、こんなに売れないものだろうか」と思うほど売れない。だまされたと思って読んでみてください、といいたくなる本はあまりないのだが。つまりこれは僕の嗜好がある物差しの中では5σぐらいに属する物好きであることの証明にすぎないのだろうか。


「意識」を語る

「意識」を語る