パーソナル多メディア時代をめぐる日記風文章

twitterを始めたとアナウンスしたら、あっという間にめざといブログ仲間に見つかり、“follow”してくれて、こちらも“follow”をお返しする。と、その日のうちに、yukioinoさん(id:yukioino)が拙ブログのコメント欄で先日おっしゃっていた“twitterのシュンポ部”が現実のものとして見えてくる。もう少し積極的にフォローのサインを出せば、あっという間にこのtwitterシュンポ部(=ブログでつながるがある人のtwitter内でのネットワーク)に仲間入りしそう。なんだ、みんなこんなとこでのびのびと遊んでたのね、とにやりとせざるを得ない。

ふと、twitterで楽しくおしゃべりしていたら、わざわざブログを書く意欲などなるなるかもしれないと思う。本音というか、自分の直感に近いメッセージはリアルにはなく、ブログにある、と思っていたら、それはいまやtwitterにある。そのうちにtwitterにはなくて、○×にはあるということになるのかな。社会生活を営むうえで仮面をかぶるという比喩があるけれど、脳科学の進展と期を同じくしてマルチ・パーソナル・メディア時代が到来し、本物の私というのもひとつのお話に過ぎないのかもしれないと、哲学者でもない一般庶民がそんなことに思いをいたす時代がやってきたようだ。表面的に他人に見えている外見のなか本物の私がいるというワタクシ観が再構築されようとしている時代と言いかえてもよい。でも、私が服を着替えるようにメディアを変えて表現される何かであると誰もが信じる時代が来ようとしているのだろうかと考えると、さすがに、それはありえないだろうと自分の中の常識が反駁をする。

そちらの真偽はさておき、社会関係がパーソナル電子メディアの時代においてますます微妙に複雑になっているのは否定できない。実名でブログを書いていると、初めて知り合ったときにすでに相手に知られているという関係の結び方が起こる。僕が一方的に相手を知っている立場の場合も、その反対にまれには知られている側だったりすることもある。人間は馬鹿ではないから、ブログ上のAさんとリアルのAさんとを混同したり、別人物視したりすることはなく、二つの異なる印象は当然修正され統合されると僕は信じるけれど、その後ですら、社会生活を営む上でブログ上のAさんとリアルで知っているAさんとに対し同一人物として接することが出来ないということも、まま起こりえる。というか、そういう世の中になってきている。日本ではヴァーチャル上では匿名という場合が多いので、当たり前のようにそれが起こる。二つのシステム、アーキテクチャの間には断絶がある。なんと面倒くさい世の中になってしまっていることだろう。実務的に発想する人は「ツールの使い分け」のテクニックの話としてこの先を考えるだろう。