twitterについてもう少し

昨日、twitterについて感想を書いたところ、三上さんからトラックバックを頂いた。三上さんが奄美旅行で体験されたディスコミュニケーションという主題をtwitter的営為の対極に置いた、それはそれは強力なトラックバックである。三上さん、ありがとうございました。

三上さんはtwitterについて、次のような感想を書いてくださった。

それはいわば微分的なコミュニケーションの非主体的な連鎖を誘うよくできた仕組みだと思う。言い換えれば、主体化、主題化する以前の短い言葉が圧倒的な量に到達して何らかの質に転化することをも期待させるひとつの実験のようなものだとも思う。しかし、それに参加する人格、「twitterをやる自分」は十分主体化、主題化してしまっているところが見え透いてつまらないと感じる。

コミュニケーションの機能に「自分はこういうことを考えている」という意見の表出を行う部分と、言葉を紡ぐことによって人とつながる他者とのリレーション構築を行う部分とが含まれているとすると、ブログは使いようによってはその二つの機能を絶妙にバランスさせることが出来る道具だと感じられる。そこが、使ってみてはっとさせられ、妙にはまってしまうブログの面白さだと思う。

マス媒体に原稿を掲載してもらったり、本を出してもらった体験から言えば、新聞・雑誌・書籍といった旧来の活字メディアで後者がもたらす充実感を得ることはほとんど不可能だった。律儀な知り合いが「読んだよ」と丁寧に教えてくれたり、褒めてくれたりということがあると内心とても嬉しかったものだが、そんな反応は例外の部類に属する。媒体に露出したというちんけな自己満足はあるが、反応がないどころか、果たして自分が書いたことはどこかの誰かに届いているのか、いないのかすら分からない。底のない井戸に石を落として、耳を澄ませているようなものだ。もちろん、これは己の書いたものの力のなさの証明でもある訳なので、恥ずかしい話ではあるのだが。

twitterは、この反対にリレーション構築機能の部分を拡大してみせる。「飯食った」「プルーストを読んだ」「上司がアホだ」「このサイトが便利」といった「主体化、主題化する以前の短い言葉」がそれらに対する返信を呼ぶということが意味を形成するというシステム設計者の思想、それらの言葉を時系列に併置させることによって意味が浮かび上がるという思想、思想というのが大げさであれば、チャレンジングな仮説が、ばっちりと利用者の志向にはまったということではないかと思う。

そこでは思想を紡ごうとする発信者の主体よりも、twitterという主体自身が大きく見えてしまうという面は強く存在しているように感じはする。そこを面白いと感じるか、つまらない、あるいは危険だと感じるかで、この新しいメディアへの評価は異なるものとなってくる。

三上さんの注釈の文言の中にある「それに参加する人格、「twitterをやる自分」は十分主体化、主題化してしまっているところが見え透いてつまらないと感じる」というのは、おそらくこの種のことには人並み外れて鋭敏な三上さんが実際にさわられた正直なご感想だと思われ、その表現の突き放し方に凄みを感じる。

さて、それでは十分主題化していないコメントや、十分主体化されていない人格が、このメディアの中で生きていけないのかどうかだが、このことについては、少し興味がある。twitter的な楽しさの核が、コミュニケーションに対する人の欲求にストレートに訴えかけるところにあり、その速さがビジネスなどの実利にも直結できるという点は直感的には理解をしたつもりだが、要はtwitterの上で文学的営為はあるのかないのかという点についてはよく分からないということだ。携帯小説があるのだから、それはやはりあるのだろうとは思う。もう存在していて僕が知らないだけなのかもしれない。ただ、自分自身で実験をしてみる気持ちは、ほとんどない。twitterをやるんだったら、日記を書きたい、もう少し自分自身に向かい合う時間を持ちたいというのが正直なところ。将来的には、日記とtwitterで、ブログはやらないという選択肢をとることだってないではないとは思うし、ある種の目的をもったリレーション構築のためにtwitterを活用することは大いにあり得るだろう。