twitterはやばいと思った

使い始めてたったの三日間、短い英語のフレーズを数回ポストしただけなのだが、twitterはちょっと危険な道具だなと直感、積極的に使うのは止めることにした。

ブログのよいところを突き詰めると、twitterに行ってしまう。それはたった2,3日でもうっすらなりと実感するところがある。文章は短く、むしろ断片的であることを旨とする。形態はブログからさらに簡素で、シンプルなものに変化しているが、そこには可能性として、論理も、情報も、利益も、情緒も、レトリックも存在する。そして、速い。脳髄の中の、電気信号発火の原型をとどめるような素直な言葉が、サービスの画面にちかちかと点滅する。さらに、自分の文章が他人の文章の中に紛れ込んで見えるというビューワーの形態が、一つ一つは単純なコメントであるはずなのにコミュニケーションをよりネットワーキング的なものにする。たかだか10人弱のはてな仲間を“follow”しただけで、その鮮度に唖然となり、圧倒される。本や新聞を読むこととの違いは言うに及ばず、ブログやインターネットの文章と比べても、異質な何かがそこにはある。今まで使い慣れていない脳のどこかが、明らかにしびれているような感覚がある。わずかの時間使っただけなのに、なぜか定期的にiPhoneでメッセージをチェックしてみたくなるのは、間違いなく中毒の前触れだ。

これを続けていったら、それも参照先が100人、200人となっていったら、いったいどうなるのか、と考えるが想像をめぐらす前に「あり得ない」という結論に至った。正確に言えば、「あり得ない」というよりも「ありたくない」だ。twitterは、ブログの速さとおしゃべり感を進化させるだろうが、その欠点も同様に進化させるというのが、僕の直感が警告をならすところである。
ブログの欠点とは何か。たとえば、この文章が警鐘を鳴らしているところのものだ。


■「遅い」コミュニケーション(『三上のブログ』2006年9月18日)


twitter方面とはまるで反対側にある「遅い」コミュニケーションに片足を入れ続けながら続けることが出来るのは、よくてブログ程度までというのが、目下の感覚に依って来たる結論である。やはり僕は「遅い」コミュニケーションを愛好する者であり、そこからこれ以上は離れたくはない。いまですら、すでに一線を越えてしまっているという恐れがあるのに、これ以上しゃべり言葉の世界に時間を取られるのは本意ではない。

もっとも、将来その気持ちがどう変わるかは自分自身にも分からない。年末には「twitterがなければ生きていない」と言ってたりしたらどうしようか。道具の取捨選択、何を意識的に使い、捨てるかが生活のスタイルを決めていく。選ぶのは自分自身である。