「decentな」村上春樹

1Q84』の中には、全編にわたり暴力と性のエピソードがこれでもかとばかりにちりばめられている。作者が村上春樹でなければ、陰惨な影に覆われて読むのが辛い小説に仕上がっているはずだが、書いたのがハルキさんだとそうはならない。これは、端的にいって村上作品ならではの美質である。

人によっては軽薄だと忌み嫌う村上のスタイルは、大江健三郎なら英語を用いて「decentな」と書くかもしれない、世界に対峙したときの彼の態度の表れだ。70年代の終わりに村上を初めて読んだときに感じた清々しさについては、それを当時感じた感覚として覚えている自信はないが、文句を言いながらも『風の歌を聴け』以来やはり読み続けているのは、この点について村上春樹に対していささかの不信も感じていないからだ。村上についたファンの多くは、描かれる都会的なライフスタイルの格好良さというレベルではなく、その「decentな」作者の立ち姿に心を動かされたのだと思う。

最先端のインターネット技術の上に花開くコミュニティに散見される悪意の表現を読むと、日本の社会に備わる赤の他人に向けての「indecentな」態度は、村上春樹がベストセラー作家になったいまの世の中でもいささかも変化していたのだと分かる。いまだに村上春樹の「decentな」立ち姿は、希有な価値なのだ。なさけない話ではあるが、社会はそう簡単には変わらない。そう、言いながらも、俺だって諦めずに次の世代にバトンを渡していきたい、とハルキさんを読みながら思う。