ブルックナーを聴くように村上春樹を読む

村上春樹の小説はアントン・ブルックナー交響曲のようだ。という感想は、ほぼこの一年ほど、彼の第4番の交響曲ばかり聴いて過ごすということをしており、折りにつれ、この大作曲家のことを考えているから出てくるのだけれど、新作『1Q84』が、そうした連想と自然につながる性格の作品に仕上がっているのは間違いないと思う。

ブルックナーは生前に未完の9番、番号なしの0番と呼ばれている作品をふくめて10曲の、この人しか書けない個性的な交響曲を残した大作曲家だが、その作品が肌に合わない人たちからは、「ブルックナーの曲はどれをとっても金太郎飴で、彼は同じ曲を9回(10回)書き直していたようなものだ」という批判というか、ぼやきというか、その種のネガティブな印象を寄せられることになる人でもある。

たしかにブルックナーは彼ならではの独自の個性が、その構成、メロディ、リズム、和声の何れの要素にも顕著で、それが繰り返し異なる作品に用いられる。ほとんど同じメロディがそのまま使われるケースもあり、ブルックナーを嫌う人が「同じ曲を9回書いてきた」と批判するのは、十分に根拠があってのことだ。

村上春樹ブルックナーと同様、自身の思いに執着しながら、異なる変奏曲を書き続けるようなタイプの作家だが、『1Q84』には、この要素がとても強い。ブルックナーが同じモチーフを執拗に使い続けるように、『1Q84』には「これって、『羊をめぐる冒険』の主人公じゃね」とか、「この人、『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君を思い出すなあ」とか、「訳分かんないこびとが出てくるのって、あの作品と、それからあそこにもあったよな」などといった登場人物に対する既視感に始まり、バックグランドミュージックのように特定の楽曲が鳴り続ける(今回はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』)だとか、主人公は几帳面で、料理がうまいだとか、脇役がやけに物知りでいろんなことを読者に説明してくれたりだとか、『ハードボイルド・ワンダーランド』のように、二つの異なる物語が交互に語られるだとか、素性の知れない誰かから電話がかかってくるだとか、たぶんそのつもりで探していけばいくつの要素が指摘されるか分からないほど、過去の村上手法の使い回し例がてんこ盛りである。同時に、記述はますます手練れの味を増しつつ、しかしそこには、初期のハルキさんを思い起こさせる素直さ、しんとしたものへの回帰もあるような気がする。『ノルウェイの森』以降、村上春樹から少し距離を置きながら読み続けてきた読者にとって、安心して読める歓迎すべき作品に仕上がっている。

こんな感想を書くのは、初期作品につながる何かを感じるという部分が、単なる思い込みや言葉のあやの類なのか、実際にそうした要素が手法の問題としてではなく存在しているのか、とても気になるからである。どこまで古い村上で、どこから新しいのか。

ブルックナーが、感性的に遠い人から見れば、同じ曲をずっと書き直していたように見えて、実は常に新しい何かを表現しようとしていたように、あるいは歌人が31文字というがちがちの規格の中で繰り返し自己に肉薄していくように、村上春樹は、枯れた手法を用いてこの作品ならではの何かを表現しようとしている。

そこまでははっきりと分かるのに、その先、肝心なメッセージが僕にはまだよく見えない。タイトルは作品の中でも紹介されているようにジョージ・オーウェルの『1984年』のもじりで、『1984年』が戯画的にくっきりと提示した全体主義的なまなざしへの批判が基調低音になっていること、村上が初期からこだわっていた人と人とのつながりの問題が蒸し返されていることまではすんなり理解できるのだが、エピソードや筋の展開には、一筋縄ではいかない分かり難さがある。

いったい、この作品はなんなんだろうと考えつつ、ともかく、作品の意味という視点から離れた部分で、久しぶりに村上春樹の小説世界に堪能したのは間違いない。