mmpoloさんのブログが1000日を超えた

mmpoloさんのブログが1000日を超えたと教えて頂いた。


■ブログを書いてちょうど1,000日となった(『mmpoloの日記』2009年6月3日)


私がブログをやり始めて日が浅かった3年前からのお付き合いであるmmpoloさん(id:mmpolo)と三上さん(id:elmikamino)は、いまだに何か理由がないかぎり、ほとんど毎日情報を発信していらっしゃる。私は書いたり、書かなかったりで、その辺りのいい加減さは自分の人生を的確に象徴しているようで困ってしまうのだが、それでもともかく続けてはいる。

何のために? 問を発してみると、自分に関するかぎり答えは一通りではない。mmpoloさんも三上さんもそうではないかと推測する。これを遊びだと考えると、こんなにマジに遊んだ記憶はないかもしれないとさえ思う。と思う端から、いや、そんなことはないという声が浮かんでくる。音楽鑑賞や、若い頃一生懸命にやった山登りは、熱を上げたという意味ではブログの比ではなかった。しかし、ブログには、こんな雑談の体裁を取っているものですら、どこかしら「マジ」で、よそ行きで、ある意味では不純な気配が漂う。音楽鑑賞や山登りが、間違いなく純粋に遊びであったのに比べると、ブログはそれらとは少し違うところがある。音楽鑑賞も、山登りも、最後には自分の内に向かって何かを問いかける行為だった。ブログ書きには、そのような純粋さに欠けるところがある。

基本的にブログが「コミュニケーションのこと」だからだろうと思う。読み手が存在しないたった一人の状態では決して成り立たないブログ書きは、始めたとたんに社会をくわえ込んできて、しかるがゆえに「趣味はブログです」と言おうとすると、趣味という言葉では割り切れないものを感じ、趣味という言葉の穢れなさを冒涜するように感じてしまう。

やはり、どうもブログの持つコミュニケーションの機能は、趣味だとか、遊びだとかといった言葉の範疇にとどまらない何かを本質的に備えている。趣味や遊びの一部に他者とのコミュニケーションを含んだり、強い社会性を持つことはあるだろうが、それは趣味、遊びの本質ではない。

その先に思うことは、この新しいコミュニケーションの実験的な実践は、ゆっくりと日本の社会をある種の方向へと変えているであろうということだ。そして、その方向が、限定的であれ、よきものであることを個人的には望んでいるということである。私たちが相手にしているのは、社会の持つ空気であって、それは短期的には変わらない。しかるに続けることに意味があると思い込むようにしている。まだ、初めて丸3年だし、先は長い。

これを読んでくださる皆さんには、(論自体に賛成して頂けるかどうかは別にして、)何を表現したいのかは明らかではないかと思うのだが、ブログに手を染めていない周囲の人たちに、自分がやっていることが何かをうまく説明することはできず、それがときに小さな不快や内面の緊張をもよおす原因になる。

そんなときに、ブログを書き始めた初期に知り合った三上さんや、mmpoloさん、rairakkuさん(id:rairakku6)や、近藤さん(id:CUSCUS)、hayakarさん(id:hayakar)といった人たちが、いまもブログを書き続けていることが、どれほど勇気を与えてくれていることか。