中年のブログ

昨日の「ブログが書きにくい」にトラックバックを頂いて、勢川びきさんの「目指せ1/100!“中年のおっさんのブログ”」を拝見し、そのネタになっているhyoshiokさんの「40代、50代の人はなぜ表現しないのか」を読む。

勢川さんがマンガで書いているのとそっくりな状況に出会ったことがある。たぶん2年ほど前のこと、あるIT系のビジネス・セミナーに聴衆として参加し、話を聞いていたところ、講師のコンサルタントの人が、「この中でブログを書いている方」「mixiをやっている方」と会場に問いかけて手を挙げさせる場面に遭遇したのだ。勢川さんが書いておられるとおり、どぶねずみ色のスーツが支配する広い会場で手を挙げたのは僕を含めて数人だった。少ないなあとは感じず、むしろそんなもんだろうなと合点がいった記憶がある。

僕は梅田望夫さんの言う「総表現社会」は程度の問題をすっ飛ばして言えばすでに十分に実現されているし、控えめに語るにしても現在進行形で実現されつつあるという実感を強く持っており、hyoshikさんが「思いのほか進んでない」とお書きになっていることについては、その流れを加速したいという善意の問題提起なのだろうと読ませて頂いた。

僕は技術に疎い人間だが、ときどき思うのは「IT系の人ってけっこうせっかち」ということ。そもそもそういう気質の人が多いのか、仕事の進み行きが早いので、実生活にも自然と同じような変化を求めてしまうのか、それとも単に「ドッグ・イヤー」といったスローガンにとらえられすぎているのか、理由はよく分からない。逆に、僕のように「できれば一生寝て暮らしていたい」と思う、ビジネス不向きの怠け者にしてみれば、今の流れはむしろ早すぎるぐらいである。

マンガを書くことも、文章を書くことも、絵を描くことも、楽器を奏でることも、それ相応の修練と、その結果としての品質が求められるから、「下手でも良いから書いてみました」では、どうしたって続かない。中年ともなれば、その辺りの慎みというか、自分自身を客観視する能力はさまざまな痛い思いを経てそれ相応に備わっているわけで、「1/100」いれば、相当の数字ではないかと感じてしまう。開高健が『夏の闇』のなかで、主人公の女友達に「男が分からないのは、そのなかにいる子供が何をしでかすかわからないからだ」といったことを言わしめている。中年にもなってブログ遊びに興じるのは、やはりその子供っぽさの発露であることは間違いない。自分自身については、いつまでたっても大人になりきれない虚弱お子様体質であることを認めた上で、しかし世の中を変えるのはあらゆる人の中にある、そのお子様の部分、人のなかにある本質的な若さのエネルギーだとは言い張りたい。たぶん、そこまでは言ってしまって差し支えないのではないかと思う。