悪夢二題

ブログを閲覧していて、人を食ったような猫のまなざしの写真、飄々とした犬の表情の写真を見つけ、それらに関する温かいコメントを読むと、心が和みほっとする。その犬猫さんたちが一方通行ではあっても顔なじみだったりすると、気分はなおさらそうで、「よっ」と声をかけたくなる。最近見ない、あそこの子猫はどうなったろうだとか、西のふてぶてしい顔は元気だろうかなどと脳裏をかすめることがある。不思議なことに。

この数日のうちに二つも悪夢の類を見た。夢見る年頃なのである。毎晩、寝る前になると「今日はどんな楽しい夢を見られるだろう」と考えながら、うきうきと夢路につくのだが、ときどき悪い方が混じる。

一つは、自分の寿命があとわずかであることが決められてしまうというもの。アメリカの郊外で車窓からよく見える一軒家といった風情の家に僕はいる。すると、そこにモーツァルトに「レクイエム」を発注した謎の使者のような、あるいはいかにも「こいつの正体は悪魔だ」という雰囲気の男が現れて、僕に「7」という数字を示す。
それを見て夢の中の僕は、なぜだか知らないが、その瞬間に自分の余命があと数日ということが分かってしまうのである。なぜ、7が忌数なのか、さっぱり分からないのだが、夢なのだから、そこで立ち止まって考えてみても仕方がない。夢の中で血の気が引き、絶望するというのは嫌なものだ。夢の中なのにというか、夢の中であってもというか、がっくりくる気分のあり方は実にリアルなのに驚く。だから、みな悪夢をいやがるのだと思う。絶望という気分の根源性みたいなものに触れた感触はなまなましく、ああいうのは夢の中だけにしたいと思う気分は、夢の外で生きる自分の行動をそれなりに律しているのではないか。

もう一つは、これも別種の嫌なタイプなのだが、何かの手違いで有名オーケストラのソリストに僕が呼ばれてしまい、これからステージに立たなければならないというものだ。よりによって、そのオケはシカゴ交響楽団なのである。一般に、ベルリン・フィルとならんで、世界最高の高機能オーケストラと崇め奉られる存在だ。夢の中の僕は、自分が弾けないのを分かっており、如何にすればこの苦境を乗り越えられるのか、逃げることは出来ないのか、まかり間違ってうまく演奏できるなんてことはないのかと、賢明に思いをめぐらしている。この夢では、その辺りでシーンが別の場所にとんでいき、結局僕は衆人環視の中で恥をかかずに済んだのではあった。

このところ、えらそうにどの演奏がよい、悪いと書き散らかしているばちがあたったのである。いや、たぶんにそれは間違いなく、あの本はくだらないなどと吠えたり、プロ野球の選手を下手呼ばわりしたり、日本のオーケストラを軽くみたりする言動をとるたびに、心のなかで動くかすかな罪悪感や羞恥心が、悪夢となって僕をこらしめにやってくるのだと思う。