オーケストラ作品を聞くと

もし私が指揮者ができるほどよい耳を持っていたならば、オーケストラが鳴らしているすべての音を聞き分け、それらの音を自分の頭の中できれいに再現できるだろう。しかし、ごく平凡な耳の持ち主である私は、鳴っている音のすべてを把握することも、ポリフォニックな複数の旋律の流れを聞きとることもできない。残念といえば残念だが、人間、自分に与えられておらず、望んでも実現できないことについては、本気で悲観したり、嫉妬したりなどしないものだ。

不思議なのは、そうやって実際には聞けていない、十全には把握ができていないはずの曲のクオリアを、それなりに頭の中で再現できるという事実である。『宇宙戦艦ヤマト』のテーマソングでも、『スターウォーズ』のメインテーマでも、『津軽海峡冬景色』の前奏でもなんでもいい。自分が好きな曲は、それなりに自分の頭の中で、その雰囲気を再現できているはずだ。そうでなければ、クラシック好きが「誰の演奏がいい」なんて議論をして遊んでいる前提が崩れてしまう。

でも、実際にどれだけの音が頭の中で再現できているのか。あらためて自分にそう問いかけてみると、愕然とするばかりだ。ブラームスという言葉を聞けば、あの物憂げな響きをともなうメロディーが浮かんでくると信じたいのだが、現実には主旋律にまつわる断片的な素材をいくらか覚えていてはいても、ブラームスの重厚な和声が頭の中で鳴っているはずがない。鳴っていないのに、鳴っているかのように厚かましくも受け取る脳の仕組みが存在しているのだ。

というわけで、オーケストラ作品を聞くと、自分が世界を如何に不十分にしか理解していないかがよく分かるし、理解していないのに首尾一貫して理解していると思いこんでいる自分という者の存在に思いをいたすことになる。普通の人間は、世界に対して厚顔無恥な存在として生きているんだなと気づかされる瞬間だ。

今日は一転して温かい晴れ模様。家事を少しして、大リーグ放送を見てからCD鑑賞としゃれ込む。水曜日に実演で聞いたばかりのマーラー交響曲第4番」をショルティ指揮シカゴ交響楽団の演奏で。ショルティの鋭角的なマーラーが嫌いな人でも、この4番は許容できるのではないかと思う。


マーラー:交響曲第4番

マーラー:交響曲第4番