演奏の記憶

土曜日から降り続く雨は、今日もまだ止む気配がない。
一昨日、tsuyokさん(id:tsuyok)が演奏するアマオケのコンサートに行ってから、頭の中で「さまよえるオランダ人」とマーラーの第4交響曲が交互に鳴り続ける状態が続いている。そこで自分自身への問いかけがやってきた。降って湧いたように頭の中で鳴る「オランダ人」あるいはマーラーは、誰の演奏なのか?

かつてよく聴いたディスクを久しぶりに取りだして鳴らしたら、「あれ、こんな演奏だったっけ?」と戸惑うことがある。ライブで接した演奏を、ずっと時間が経って、10年後、20年後に録音で聴いたときなども、「そう、これこれ!」とかつての演奏会場の様子が蘇ってくることがあるかと思えば、その反対に「えっ、こんな演奏だったっけ?」になることもある。
「オランダ人」のスイッチを押したのはtsuyokさんらの演奏だったが、それ以降、頭の中で反芻している演奏は、先日実演で接した演奏とはおそらく違う。レコードの時代にもっともよく聴いていたのはショルティとシカゴ響の筋肉質ワーグナーだから、ベースはそこにあるのかもしれない。

でも、印象という意味では、ただ一度だけ、このオペラを生で観たウィーンでのハインリッヒ・ホルライザー指揮ウィーン国立歌劇場の演奏が大きい。オペラのスペシャリストであるホルライザーの「オランダ人」は、ショルティとはまったく異なるテイストの演奏だ。そうか、この曲の低音はこの厚みで響くのかと感じたこと、その厚みにはウィーンの弦が携えたまろやかさがあったと認識したことは覚えている。

しかし、覚えているのは、その当時にかくかくしかじかの思いを抱いたということだけではないのか。そうした要約的情報、メタレベルの記述を取り除くと、自分の頭の中に特定の状況に根ざした演奏の記憶はどこまで残っているのか?

昨日、復習をしたくなり、「「オランダ人」序曲のCDって持っていたっけ?」とCDの棚を見直したら、一枚もないのに気がついた。僕の記憶力はそんな程度なのだけれど、舞台の闇を切り裂くような弦のトレモロとホルンの咆吼はどこからかやってくるのだ。