昨日の続き

昨日のエントリーで話題にした本はこれだが、本のタイトルと広告の文章を文字通りに受け取って、それで感想を書いたわたくしは、どうも村上龍とこの本をつくった幻冬舎に乗せられているだけのような気がしないではない。でも、乗せられついでにもう一言。


無趣味のすすめ

無趣味のすすめ


広告文からは、村上龍は「ちまちまとままごと遊びするように趣味の世界に逃避しないで、自分をかけて勝負する仕事の世界で正々堂々戦ってみようよ、それが正しい生き方ってもんだし、その気概が日本経済とその未来を救うんだよ」と若い人たちに語りかけようとしている風に想像できる。あくまで想像で、違うかもしれないが。

ともかく、そんな風に想像してみたうえで、昨晩は反論を書いてみた。物事をなすエネルギーは一人の人間から360度におよぶはずで、仕事と趣味とをことさらに切り離して考えるのは無意味じゃないだろうかと書いてみたのである。

文字通りに広告に掲載された村上の文言をうけとって、「よしっ、趣味は捨てて、仕事にいきるぜっ」て考える若者がいたとすると、その結果、この日本の社会にできあがるのは高度経済成長期を支えた猛烈サラリーマンそのものじゃないかと思ったりもする。欧米で見る、仕事中毒の個人はできてこないような気がする。その先、村上の背後には「経済成長よ、もう一度!」という思いが強くあるのではないか。その政治的な動機自体をわたくしは否定しないが、もしそうだとしたら、今回のやり方はダサい。「甲しからずんば乙」ではなくて、情報技術の進展のおかげでかつての甲と乙の間に生まれている豊かな余剰が意味を持っていると考えたいし、そこをことさらに意識してかついでいきたいからだ。

こうしてブログを書くことはわたくしにとって仕事ではないので、世間的にいえば「趣味はブログです」となる類の行為であるが、その「趣味」のおかげで、わたくしには日本全国にかけがえのない仲間が増え、極端に言えば生きる希望も分けてもらっている風である。金城さんの邦訳プロジェクトや梅田望夫さんの『将棋を観る』翻訳プロジェクトは仕事ではないという意味では趣味や遊びの一種だが、極めて教育的で、社会的な意義がある。今の世の中、狭い意味での「仕事」と「趣味」の間にいろいろな可能性が生まれている。

仕事がなくて苦しんでいる人、思い通りの仕事に就けなくてもどかしい思いをしている人がわたくしの周囲を見回しても少なくない。そんなときこそ仕事にかけてみるという掛け声もないではないが、そのスローガンがうまく届く層には限りがあるのが現状ではないか。あえて、いまいうことではないのではないか。村上龍の視線は残念ながら少数の成功者の視線ではないのか。
やはり単に宣伝にしてやられているだけかもしれないが、それもまた一興ということで感想を。