吉田哲也遺作展を見てきた

mmpoloさんお勧めの展覧会を見てきた。

■吉田哲也遺作展(『mmpoloの日記』2009年4月29日)


作品はむき出しの繊細さと理知的な慎ましさの見事な融合の痕跡だった。一般的に言って、人が創作を行うとき、それが美術作品であれ、音楽であれ、映画であれ、創作者は常に他者を意識するものだと思う。人により、状況により、ここで言う他者の存在の陰は濃かったり、薄かったり。しかし、よほど丹念に探索でもしない限り、最近メディアでとりあげられるものはなんだか他人の顔色を見てばかりいるようなものが多くて、しらけたり、気分が萎えたり。気分が萎えるのは、私の日常がそのようなものと化しているからに他ならない。自分はどこにあるのだろうと、言葉にならない不安を感じているからに違いない。

吉田の作品は、その反対の気概を伝える。他人に対する媚びがない。自分の中に見えている己に対して、大いなる自信を持っていた人の作品である。子供の繊細さが宿るのに、大人しか作れない不思議な作品である。

帰宅して、先日ブログでとりあげたばかりで心にひっかかっている開高健の『夏の闇』を広げた。目指す文章は、どういう偶然かページを開いたとたんにそこにあった。

私が目指したのは、開高その人を彷彿とさせる小説の主人公が、パリで出会ったある日本人のアーティストの卵について小さな回想をする場面である。

その薄暮頃の暗がりのなかに床といわず、壁といわず、彼があちらこちらで拾ってきたガラクタが山積されている。便器のふた。自転車の車輪。ドアの取手。ガス管のきれっぱし。水道栓。馬蹄。ありとあらゆる種類の自動車の部品。つぶれたジャッキや、ハンマーなどもあった。彼はつい一昨日見つけてきたばかりなのだといってイタリア・センベイを訳鉄のうちわのようなものをとりだしてきた私に見せた。どこか駅裏のゴミ捨場に落ちていたものではあるまいかと思う。
「いいなあ。これなあ。そう思いませんか。凄いじゃないか。ちょっとこういう真似はできないよナ。ほれぼれしてくるなあ。おまんことどちらがいいだろ」
暗がりのなかで彼は声をひそめ、目を細くして、何度となくそのこわれたセンベイ焼きを愛撫した。 (中略) その手と古鉄を眺めているうちに私は一撃を受けたのである。赤錆びでゴワゴワになった古鉄の円板がふいに形からぬけだすのを感じたのである。汚穢と風化のさなかでとつぜん古鉄が柔らかくなり、優しくなり、彼の手にじゃれついたり、媚びたり、体をくねらせたりするのが見られた。ある王はその指にふれる事物をことごとく金に変えたと伝えられるが、彼は生物に変えてしまうのだった。私にはそれができない。何度試してみたかしらないが、ただ事物に指紋をつけるだけのことである。
開高健著『夏の闇』より)

開高が昭和60年代のどこかで出会った若者は、ある日吉田哲也となって出現し、彼にしか作れない繊細さの極みのような作品を創造して逝ってしまった。私は亡くなった彼の作品を見ている。そんな幻想に遊んだ。