片付け

この週末、小さな片付けをすることになり、本のいくつかや、取ってあった古い書類の類を捨てた。以前、駐在をすることになったときに思い切ってかなりの本を処分したつもりになっていたが、やはり捨てられない一群がある。今回は、学生時代に使った教科書や、昔仕事で関わった報告書の類や、生まれて初めて海外旅行をした際に手元に残ったパンフレットや地図や、そんな色あせた紙の束のかなりの部分をまとめてゴミにすることにした。20代前半に書いた友人への手紙の草稿や、日記の切れっ端などまるで記憶から消えていた文章が出てきたのにはびっくりし、いまと文体があまり変わっていないのを確認して「やれやれ」と苦笑してしまった。

結果として、狭いマンションの押し入れの隅を占領していた箱が四つから一つになり、本は本棚一つに収まる量になった。中には捨てようと思って、やっぱり本棚に戻した串田孫一(僕が持っている串田の最後の一冊)や、もう一度読んでからと考えた吉本隆明などもあったが、昔読んで思い出深いという理由だけで、もしかしたら二度とは読まないかもしれないとその瞬間に思ったものは、余計な想像をめぐらさずに捨てる側に置いた。

整理法のハウツー本をひもとくと、たいがい「数ヶ月開かなかった書類は捨てましょう」などと説かれており、その段で行くと、20年間開かれることなく押し入れの肥やしになっていた古い記憶の残滓などとっくの昔に処分されてしかるべきである。それらは、「将来懐かしく振り返る時がくるはずだから」「いつか参照するときがくる重要な情報かもしれないから」と思っていた大事な記録のはずだった。ところが、いま、その“将来”、かつて“将来”であった人生の時に少しく足を踏み入れて、それらの情報を眺めてみると、「なぜ、こんなものを後生大事に懐にしていたのだろう」と呆れるようなものが少なくない。

それでも捨てることに躊躇がなかったかと言えば嘘になる。どうやら、それらの記録は「持っている」、あるいは「捨てていない」と感じられることが僕にとっての価値であったらしい。だとすると、大げさに言えば、僕はこれから「持っていない」あるいは「捨ててしまった」という意識とだけは戦っていかなければならないことになるのだが、まあなんとかなるだろう。