ボスザルは存在しない

さすがに台風の日に観光に来る物好きは少ない。おかげでじっくりとスタッフの説明を聞き、猿の様子を楽しめた。自然と立花隆の『サル学の現在』を思い出した。

当時の学問の先端的知識を著名な学者へのインタビューによって明らかにしていく同書の面白さは忘れられない。帰宅してから本棚の奥から取りだしてぱらぱらとめくってみた。あらためて面白い。やはり、現地は訪れるものである。高崎山で出会った猿たちの動作、そこで働く係員の話に引き込まれた体験の直後だけに思わず本気になって読み始めてしまい、けっきょく2時間近く古い本と付き合うことになってしまった。

当時は「ボスザルというものは存在しない」ということが、一般にはまったく知られていない時期で、その話題にはかなりのページ数が割かれている。「へぇ、そうなんだあ」と非常に興味深く読んだ覚えがある。

つまり、ニホンザルの社会はもっとも力を持つオスザルを中心として同心円的な権力構造を有する社会だと思われていた。その第一位の権力者を研究者はボスザルと呼んできた。大衆の間でも、世の中でやたらと権力風を吹かす御仁をボスザルと呼ぶ比喩が使われてきた。ところが専門家の研究が次第に明らかにしたところによれば、かつて人が思い描いていたようなボスのしたい放題といった関係はそこにはないのだそうだ。『サル学の現在』に出てくる伊沢紘生先生の話を引用する。

餌づけ群を見ると、なるほどこれがボスかというサルがすぐわかるんです。二位も三位もすぐわかる。それまでのサル研究で、ボスが群れの中でどういう役割を果たすのかいろいろ書かれてますが、それもだいたいなるほどと思える。ところが野生群に目を移すと、どれがボスかわからない。体の大きな貫禄のあるオスは、何頭かいますよ。だけど、彼らをいくら観察しても、ボスの役割とされている行動は何も観察されないんです。

高崎山でマイク片手に素晴らしい解説をしてくれた係員さんたちの話にもその話題は当然のように出てきた。かつてボスと言われていた順位1位のオスはアルファ・メイル(つまり文字通り第一位のオスという意味)と呼ばれる。伊沢先生の話にあるとおり、彼らの間に存在する順位は簡単に分かる。係員さんが、ピーナッツを手にしてテストしてくれるのだが、二匹の猿の間にピーナッツを置くと、必ず上位の猿がそれをとる。下位の者は常に譲るのである。でもやはり一般の認識とは違ってアルファ・メイルは最大権力者ではないし、確固とした義務もないという。ここまでは『サル学の現在』に出てきた話だが、次の話に驚いた。「アルファ・メイルとはその群でもっとも古くからいるオスなんです」という説明がされていたのである。つまりかつてボスザルと呼ばれていた存在とは、実際には最古参のおじいさんということらしいのである。最初に話を聞いた女性の係員の方も、二人目の男性も、同じように当たり前のことを教え諭すように話していた。

これはすごいことじゃないだろうか。高崎山で見たC群のアルファ・メイルである「ゾロ」さんはえさの時間になると、ゆったりと登場し、順位上位者のための切り株の上で悠然とご飯を食べていたのだったが、それが「群れの統率。移動の決定と誘導。外敵に対する警戒と防御。なわばりの防衛。泊まり場や菜食地の決定。群れ内部のもめごとの取り締まり。他のサルを威圧するための示威行動」(『サル学の現在』の伊沢先生の発言による)などの義務に伴う権利であれば、理解は容易である。専門家の説明によれば、そうではなくて、彼が皆から一目置かれるのは、群れのいちばん古株というだけの理由で与えられているご褒美なのである。

いちばん古くから群れにいる者がもっとも偉い社会。それって、いったいどんな社会なのだろう。思いをめぐらせてみるととても不思議だが、同時にとてもいい社会ではないかと思えてきた。敬老社会? 儒教的社会? そう言ってしまうと、なんだか堅苦しく古くさいだけの人間関係しか思い起こさないのでよくない。高崎山ニホンザルが醸し出す自由な雰囲気は、もっとリベラルな、楽しい社会を連想させてくれるのである。

昨日のコメント欄に小野さんが「しかしこう見るとサルも自分も変わらないことに気がつきますね。」と書いてくれたが、おっしゃるとおりで、高崎山にいると人間と猿と、どっちが賢いのかよくわからないという気分になる。