堂々と作り話を語る

人生は一筋縄ではいかない。思い通りに行かない。人の意思など社会の意思の中では波間に翻弄される小舟のようなものだ。そうした現実を認識しつつ、その現実に挑みかかる者の周囲にドラマは誕生する。

丸山健二の小説は、そうしたマッチョな世界観と、その裏側に隠れながら物語を紡ぎ出す著者の繊細な感性とが表裏一体となって不可思議な世界を表現してきた。彼の作品世界は、年を経る毎に象徴性と寓話性を増している感があり、『日と月と刀』に至っては、「これは作り話です」という虚構性マックスの地点から、どれだけ人生の真実を絞り出せるかというゲームの様相を呈していると言ってもよい。

23歳の若さで芥川賞を受賞した『夏の流れ』は刑務所の看守が主人公だった。『ときめきに死す』は要人殺害を狙うテロリストとその傍らに佇む主人公を描く作品だった。初期の丸山は、リアリズムの手法の中で日常を異化する小説をしこたま書き続けていたが、次第にその作品は様式性を増していき、ドラクロアからクリムトに変貌する画家を見ているような気分である。

間違っているかもしれないが、彼にとってのエポックメイキングな作品は、文藝春秋社の創立60周年と銘打って出版された『千日の瑠璃』だと思う。主人公の少年と彼が生きる土地の神話を、一日一ページに相当する文字数できっかり千ページ・千日分で綴る大作。「私は風である。」「私はペンである。」といった擬人化の手法を用いて毎日異なる語り手を設定し、千の日を千の視線で語るという試み。「私は○×である。」という決まり文句で始まり、きっかり一日一ページで語るという定型化の試み。この作品は意欲の高さにおいて、それまでの丸山作品をはるかに凌ぐ大作だった。しかし、成功したかどうか。残念ながら、作者が自身に課したハードルは高すぎたような気がする。頭で書き、頭で読ませる部分が目立つ小説になってしまっている。書いた者の力業には恐れ入るばかりだが、読む方もたいへんだった。読み終わったときに「やった。読んだ。終わった」と思ったものだ。

『日と月と刀』も、様式化、定型化を意識した作品という意味では『千日の瑠璃』以降の典型的丸山作品ではある。そして、それが実に様になっている。曰く付きの名刀を携えて人生を流れる薬王寺無名丸という主人公は、丸山作品には珍しく作者に突き放されてしまってどうしようもない役回りではなく、最初から愛情の視線が降り注がれている。この安定感は何か。どこが違うのだろう。何が丸山にこの変化をもたらしたのだろう。

室町時代とおぼしき時代設定を背景に、さらに次々と語られる無名丸の波瀾万丈の人生は、ことごとく漫画チックと言ってよいほど荒唐無稽である。主人公が携える二ふりの名刀といった設定ひとつとっても、それを自在に操る主人公という設定も、また、この人物が次々と遭遇する事件のひとつひとつを見ても、物語が本来持つ面白さをこれでもかと注ぎ込む。その勢いたるや、ハリウッド映画か、これは、と思わせるほどなのだが、それでいながら、読者はありきたりの物語を読んでいる気分にはならない。「これは作り話です」と堂々と宣言しながら、そこにこの作者しか語り得ない真実の物語が生きている。『千日の瑠璃』の後、ともすれば形の新しさを追求するというマンネリに陥っているのではないかと思わせる様子はどこにもない。すげえなあと思ったことよ。