久しぶりの丸山健二

丸山健二の『日と月と刀』を読み終わった。丸山健二の著作に身銭を切るのはいつぶりだろうと、本箱を覗き、たぶんもっとも最近買ったエッセイ集『されど狐にあらず』の奥付を見たら1991年とあって、これには驚いた。まるで竜宮城の浦島太郎ではないか。

たぶん、その頃からぱたりと読まなくなり、ときどき思い出したように図書館で借りて読むだけの丸山だが、その毒気は体が覚えており、『日と月と刀』の最初の一ページから既視感の虜になっている。

丸山健二はある時期から、様式というか形式というのか、小説というのは何を書くかではなく、どう書くかが問題だという点を意識的に掘り下げていくようになり、つまり他の作家であれば微妙な文体やプロットの違いで勝負をしようとするところを、より大きな枠組みで新しさを追求することに血道をあげるようになっていった。この人は、ものごとをとことんやらねば気がすまぬ御仁で、あほらしくて読んでいられない小説が横行するなかにあって、次はまた新しい何かを提示してくれるに違いないと思わせる気概と力量の人として、集中的に読んでいた一時期があった。彼がエッセイで語る独善的ともとられかねない気っぷのいい啖呵は若者には大いにアピールした。

ところが、あるときからカタチは違っても全部が金太郎飴のように感じられるようになり、私は丸山健二ではないのだから、そういうことがおこっても何ら良心の呵責を感じる必要はないと思いなし、そろそろ丸山健二に執着する個人的な季節は終わったのだと感謝の気持ちを込めつつ読むのを止めたのだったが。

久方ぶりの丸山健二は、まだ見事に丸山健二をやり続けていた。今回の作品は丸山初めての時代小説だそうで、いままで時代物を書いていないのが嘘のようにはまっている。考えてみれば、それはそうで、彼の初期代表作『ときめきに死す』に出てくる短刀や、「夏の北アルプスには、ほかの季節のように「寄らば切るぞ」というむき出しの殺気があまり感じられず、どこか酒をしこたま呑んだ男ににて」(『山と小説』より)といった彼が使いたがる暴力的な言い回しを思い出せば、丸山が剣豪を小説に登場させない方が不思議なぐらいである。その点で、この小説の舞台設定は、丸山が丸山らしさを存分に発揮できるものとしてこれ以上のものはないのではないかと思わせるのに十分だ。はまっている。

60代半ばで世に問うた作品が、この人ならではの、もしかしたら最高の作品かもしれないと読者を唸らせる。人の生き方として、このことだけで脱帽という気分になる。勇気が湧いてくる。


日と月と刀 上

日と月と刀 上