アジアの田舎になっていく

昨日は息子の高校野球の応援をしに平塚まで往復50キロ、サイクリングをしてきました。疲れがたまっていたのでしょう、30度の暑さの中自転車を漕ぎ、2時間半、バックネット裏の炎天下で陽にじりじりと炙られたらそれだけでばててしまい、帰り道が辛かった。ツーリングをやる人は百数十キロといった距離を走るでしょうから、たいした運動ではないはずなのですが、調子の悪いときに無理は禁物だと思いました。

話は変わるのですが、私が「英語圏と日本語圏の動きの早さを比べると、日本はますますアジアの田舎になっていく」と書いたら、三上さんが素早く積極的な反応をなさり、「なんか、魅力的に響きました(笑)。ほんとに「田舎」になればいい、と」と、意味深長な反応をしてくれました。

実は、「アジアの田舎」というフレーズは、週刊東洋経済に掲載された堺屋太一さんの言葉を借用したものです。昨年の1月にこの記事をめぐるエントリーを書きましたが、堺屋さんの記事の部分をもう一度書き写してみます。

戦後の日本には国家コンセプトが二つありました。第一は「日米同盟を基軸に経済大国、軍事小国を目指す」という外交コンセプト。第二は「官僚主導の下に規格大量生産型の近代工業社会をつくる」という経済コンセプトです。これで90年まではうまくいきましたが、バブルと冷戦が終わると、コンセプトは二つともダメになった。
(中略)
そこでジグソーパズルの全体像、つまり新しい国家コンセプトをつくる議論を、07年にはじめなくてはいけない。
(中略)
新しいコンセプトには二つの選択肢があります。まず個性豊かな人が頑張って、世界の第一線で踏みとどまる決意を固める。そのためには、あらゆる施策を個性重視に切り替えなくてはならない。教育改革も得意な科目を増やして、不得手な科目を減らすぐらいの大胆さが必要です。もう一つは、今の状態のまま世界経済から退場し、アジアの片田舎となって気楽に暮らすという選択肢です。もう経済や科学技術の分野で競争しなくてもよい。才能がある人はアメリカに行けばよいというものです。
前者は「強い国、豊かな国」を目指す。希望と栄光はあるが、国民はしんどい。後者は気楽だけど夢と未来は淡い。どちらの日本を選ぶか、今こそ議論すべきです
週刊東洋経済12月30日+1月6日合併号 p44)

この話を読んでから、さまざまな状況でこの問いかけを反芻することがあるのですが、「トップを目指せ!」という選択肢をとっていない以上、勢い「アジアの田舎」が見えているということなのだろうと思います。北京オリンピックを見て、中国にただの一度も行ったことがない私は、あらためて「アジアの田舎、見えてんじゃん」と驚きました。相対的な力関係が経済的な中央と周縁を形成するのであれば、周りがより進んでいれば、立ち位置は自然と田舎になります。

ここでいう「田舎」はソローや三上さんが語る田舎、スガハラさんがきのこを生み出す田舎とは同音異義の世界ですから、ほとんどの日本人はそのことに納得できないはずです。大相撲やプロ野球がどうのこうのと言っている場合じゃないはずなんですけどね。

日本の場合、東京を中心にして都会度・田舎度を測る価値観を壊していかなければ、そもそもヤバイすね。私が関係する出版業界なんざ、もう田舎もいいところで、ほんとヤバイす。