勝つことだけが人生か

いや違うね、と言いたいいう話。それはつまり、「勝つ」という定義をどこに置くかの問題で、ぎりぎりと究極の「勝ち」、誰にとってももっとも分かりやすい例としての「オリンピックの金メダル」にこそ勝ちがあるとする考え方には断固として反対という話です。

tsuyokさんが、北京で野球の予選が始まってしばらくした頃に星野の批判を書き(根性だけじゃ勝てないんじゃない?『われ思う、故に…』2008年8月16日)、私はそれに対して思わず速攻で反応させていただいたのですが、何故かというと、根性論では勝てないということと同時に、星野がこの数ヶ月「金メダルしかいらない」と、テレビのニュース番組で得意満面の笑顔で話をしている姿が美しくないことに気分がよくなかったのです。

根性論では勝てないから、根性論がまずいのではなく、根性論と常に同衾している、選手の人格を斜め上から見下ろすような、底意地の悪さ、露骨な権力者の視線が気持ち悪く、であるが故に根性論者に勝ってもらっては私の趣味としては困るよな、という話です。

個人が勝つことに執念を燃やすのは素晴らしいことです。でも、ただ勝つことだけが究極の価値で、そのためには手段を選ばないのだとなってしまっては元も子もないと私は思っています。よりよい仕方で勝つとでもいうのでしょうか、そのことによって自分ばかりでなく、周囲によい影響を及ぼすような理念を携えて戦って欲しい。勝つために執念を燃やす人を見ることの価値はそこにあるはずで、仮に勝つことを優先するあまり周囲に迷惑をかけるような人がいたとしたら、我々はその人を応援する必要はないし、そもそも応援したいとは思わないはずです。

誰もが予想していたとおり、星野にごまをするような話ばかりしていたマスコミが手のひらを返して大批判を始めましたが、それはもっと気持ち悪いですね。書こうとしていたことと話が少しずれちゃいまいたけど、今日は時間がないので、ここまでにします。