陳腐で荒い物語

昨晩、テレビをつけたら、ちょうどNHKの『プロフェッショナル』で北京オリンピックの競泳における二人のメダリスト、北島康介中村礼子のコーチをしている平井さんという人の話をしていた。如何に世界の頂点を極めたか、如何にメダリストを生んだか、オリンピックという現場における微妙な選手の心理とそれを如何に制御するかでぎりぎりの判断を迫られるコーチの、頂点の戦いが描かれていた。

それはとても面白かったし、まったくもって嘘のかけらもなければマジの限界に挑む人たちの物語であり、どこでも見られる訳ではないホンモノの迫力はあったものの、「すごい」とは思ったものの、しかし、どこか「勝てば官軍」の物語を予定調和的に語られているような気がしてしまい、そこがひっかかって感心するばかりのモードにはならない。それは「絶対に敗者の物語の方が面白い」と感じる状況にあるから、あるいは年齢に自分が達してしまったからに他ならないのだろうと思う。制作者の世界観にかすかな違和感を覚えるが、自分が正しいというつもりも実はない。ただ自分の心のありようはそういうことだ。

冗談じゃない。陳腐で荒い物語が終わったのであって、世界の混沌に拮抗しうるローカルでありつつも普遍的で精緻な物語が求められているのだ。
(物語(『三上のブログ』2008年9月2日))

というような声も聞こえてくる。絶叫やガッツポーズとは無縁の、静かで普遍的な物語。例えばヴェンダースの『ベルリン 天使の詩』が大傑作ではなくても心のどこかに残る映画であるのは、つまりそういう価値観につながっているからである。ブログを通じた我々、普通の市民による日常のネットワークに途轍もない意義を感じるようになるにつれて、“陳腐で荒い物語”の陳腐さは際立っていく。