通勤途上の英語学校の広告を見ながら思ったこと

ときどき英語ができることをひけらかすやつがいて、そいつらがやたらと英単語を交えて会話をしたがるのを聞くと笑止千万という気分になる。僕の小さな体験でも、外国で生活をすると、その土地の言葉と母国語を交互に聞いたり話したりとなるために、二つの言語ごっちゃになってくることは普通に起こる。

子供たちが週末にだけ通っていた日本人学校にしょうた君という男の子いた。しょうた君はこの日米語ごちゃまぜ現象を逆手にとって「しょうた語は世界語だ」という気の利いた作文を書いていた。自分がしゃべる日米まぜこぜ語を“しょうた語”と名付け、そこに前向きなグローバルな可能性を読み取ろうという洒落た内容だった。

この子の作文が気の利いているのは、“しょうた語”は日米どちらの言葉としても水準を維持できていないという認識が基本にあり、その裏返しとしての肯定的な意味をそこに見つける、次の一歩の糧にするという意思が読み取れる点にある。つまり、日本語に英語を交えて語るしかないのがダサイことぐらい、外国で暮らせば小学生でも分かることなのである。

勝手に話題に引っ張り出すのは恐縮だが、先日映画の話題で出てきてくれた古い友人のWesttail君は日米仏語に堪能な男で、いや、堪能などと書いてすますようなレベルでは到底ないのだが、日本語については高校生の頃からやつのように書けたらどんなにいいだろうと羨ましくてしかたなかった名文家だし、彼の英語表現はおよそアメリカ人のインテリが舌を巻く水準であるらしい。そして、そのことはこれがいいたいがための前口上なのだが、この人の、聞くたびに人を引きつけずにおれない魅力的な日本語の語りには、へんな英語の単語が混じることはまるでないのである。語学ができるとは、つまりきちんとした母国語をしゃべることができることであると、彼との付き合いを通じて僕は定義することになった。きちんとした母国語がしゃべれない人に、きちんとした第二言語が身に付かないのは至極当然である。ここには能力と意思(努力)の問題双方が含まれている。唐突に英語の話などを書いたが、山手線の中で英語学校の広告を見ていたら、ともかくそんなことに思いが至りましたとさ。