私たちの上に広がる空について

三上さんに『ベルリン 天使の詩』をめぐる拙文を引き取っていただき、豊かにふくらませていただいた。

■(『三上のブログ』2008年8月26日)

あの映画では、多くの場面で、空(そら)、あるいは天が象徴的に描かれていた。

三上さんがそうお書きになっているのを拝見し、自分の文章を読むと『ベルリンの空』という日本語では、この映画の日本語訳にはなっていないことを改めて知らされた。

三上さんが喝破しているとおり、『ベルリン 天使の詩』は「土地を脱テリトリー化する」映画であった。「壁」が存在していた当時のベルリンは、東西分断の象徴であり、国家による人間分断の象徴であり、人と人とが目に見えない壁によって分断されていることを象徴する都市だった。その分断され、小さなセルに囲い込まれてしまった人間と、人には決して見えない存在ながら、人間の喜びと心の痛みとをその傍らで聞き取る心優しい無数の天使たちとを対峙させ、我々の日常を相対化する仕掛けを、この映画の筋立てと映像は備えている。

映画で「空」は天使の住む場所として設定されている。そこには当然ながら東も西もない。映画のタイトル『Der Himmel über Berlin』は、その「空」が頭上に広がる「ベルリン」ということだから、これは自由と希望の象徴が我々の頭上に広がっているという世界観をその中に含んでいるわけだ。そうでありながら、この映画には、実はそうしたリベラルな伝統的価値観をすら勇気を持って乗り越えるための筋立てが組み込まれており、それがどういうものかはネタをばらすことになるので紹介しないけれど、この作品の魅力の根幹を形成している。

この話に関連しては、僕のエントリーを読んでくれた三上さんが、もどかしそうにお書きになっている点、つまり、「空(そら)、あるいは天」という表現について少し説明しておかなければならない。ドイツ語の「Himmel」は日常用語としては我々の頭の上にある、雲や星が浮かんでいる空間を指しているが、それは英語にすれば「heaven」=「paradise」、日本語では「天国」の意味にもなる。ベートーヴェンの第9でも「Himmel」という言葉が何度か繰り返された後に、

Brüder! überm Sternenzelt
Muß ein lieber Vater wohnen
(兄弟たち! あの星のテントの向こうに親愛なる父は住んでいるに違いない)

という表現が出てくる。これは文豪シラーの詩の一節だが、昔からゲルマン的世界観では、どうやら空は神様が住む場所なのであるらしい(その辺りの歴史的背景はよく分かっていません)。だから『Der Himmel über Berlin』を『ベルリンの空』と訳してしまうと、本来のニュアンスはまったく伝わらなくなってしまう。日本語の空(そら)は、空(くう)、空っぽに通じており、空に神様が住まうというドイツ的世界が抜け落ちてしまう。だから『ベルリンの空』じゃ駄目で、『ベルリンの上に広がる天』の方が、キャッチとしてはさまにならないが、含まれるイメージとしてはオリジナルに近い。映画は、この空=天国と地上との関係を相対化する。それが素晴らしい。新しい表現はそうやって出てくるのだと僕は静かに感動した。

英語の「sky」にどのようなニュアンスが含まれているのかよく分からないが、この映画の英語訳をグーグルで検索すると、「The Sky over Berlin」と「The Sky above Berlin」の2種類が出てくる。こっちも日本語と同じで、妙にさっぱりと響く。しかし日本の興行関係者のように『ベルリン 天使の詩』といったひねりは加えておらず、映画のタイトルはこのとおりのさっぱり仕上げ。こんなことを考えていると、「また、よけいなことをして」と言いたくなる『ベルリン 天使の詩』という邦題も捨てたものではないという気分になる。