開高健の墓参り

日曜日の朝、北鎌倉の円覚寺を散歩してきた。そのために行ったわけではなかったのだが、敬愛する作家、開高健墓所円覚寺の中にあることを思い出し、初めて訪ねてみた。
日曜朝8時半の円覚寺は、雲一つなくすっきりと晴れ渡っていた。



開高の墓があるのは円覚寺の中にある松嶺院という小さなお寺。円覚寺はショッピングモールのように大きな入れ物になっていて、その中に松嶺院や居士林、桂昌院と個別に名前の付いた施設が点在している。松嶺院には佐田啓二田中絹代清水崑などといった著名人も葬られている。最近の方ではサリン事件被害者の坂本弁護士ご一家も。





朝の9時前に門をくぐり、「開高健さんのお墓があると伺いましたが」と尋ねたら、掃き掃除をしていた年配のご婦人は本堂を回り込んで登るようにと丁寧に道順を教えてくれた。細長い参道を登ると墓所に出る。入り口に坂本さん一家を偲ぶ張り紙がある。痛ましい国民の記憶。






墓所内は撮影を遠慮してくださいという立て看板があったので写真は撮っていない。木々がない青天井の下、整然と並ぶ区画を確かめながら歩いたら、入った際に見落としていた入り口のそばに開高大兄の墓はあった。墓石代わりに茶色くて、ところどころ白っぽい縞模様が流れる自然石がどっかりと置いてある。小さなこたつのように角がまるくとれ、てっぺんがひろびろとした石を見ていたら、どうしてもなでたくなった。冷たくて、固い。由来は知らないが、開高ゆかりのものなのだろう。

墓碑には、開高と長女・道子、妻・牧洋子の名前があった。開高が平成元年、道子が平成6年、洋子が12年と享年が刻まれていた。なぜかきれいに6年おきであるのに気が付いた。開高が喉頭癌で死去してのち、道子は鉄道自殺、洋子も一人暮らしの自宅で死後数日を経て発見されるという、あまり楽しくない記憶を残した一家だった。洋子も自殺だったと聞く。家庭人としての開高は、そういう一生を送った。

僕は罰当たりな性格なので、この場所に開高が眠っているとは思わない。開高の骨はあるかもしれないが、開高の骨は開高ではない。開高健は平成元年にこの世から消えてなくなった。それでよいではないか。それに。墓は残された者のための、記憶活性化のための装置である。であれば、作品が残されている作家に墓は必要ないのではないかと僕は罰当たりに思う。
さはさりながら。よく晴れた秋の朝、ひんやりとした気持ちのよい空気の中に佇んでいっときを過ごすことができたのは、このお墓のおかげだ。また訪れることになるのかもしれない。




行儀が悪いが墓所にどかと腰掛けた。とこんなサインが見えた。撮影禁止だが、外に向けてカメラを構えるのぐらい許してもらえるだろう。パイプを好んだ開高ならとたんに気の利いたジョークの一つでもひねり出すに違いないなと苦笑を禁じ得なかった。墓のすぐ前にコスモスが上品に植えられていた。